上杉謙信「鉄砲で殺したから卑怯でもなければ、刀で殺したから偉いわけでもない」の巻【こんなとこにもガバナンス!#12】

栗下直也:コラムニスト
「こんなとこにもガバナンス!」とは(連載概要ページ)

「鉄砲で殺したから卑怯でもなければ、刀で殺したから偉いわけでもない」
上杉謙信(うえすぎ・けんしん、戦国時代の武将)

1530~1578年。長尾為景の子。初名は長尾景虎。48年、兄の長尾晴景の跡をつぎ越後(新潟県)守護代。後に越中・加賀・能登まで勢力を拡大する。信濃、関東で武田信玄や北条氏康(北条早雲の孫、後北条氏3代目)と争う。中でも信玄との川中島の戦いは広く知られる。61年、上杉憲政より上杉の姓と関東管領職を譲り受け、上杉姓に改名。77年には加賀・手取川の戦いで織田信長軍を撃破したが、関東への出陣直前の78年に急死。生涯独身を貫いた。

謀反した家来50人を皆殺し

この言葉は謙信の家来50人が、越前・宮野の城主、中沢長兵衛信長にそそのかされて志を変えたため、謙信が中条五郎左衛門と苦桃伊織に命じてその50人を殺させた時の話だ(さらっと書いたが家来50人皆殺しってすごい)。

五郎左衛門の臣下の中条半蔵は槍の間の窓から鉄砲で8人を殺し、浄真という苦桃の臣下は小太刀で7人まで斬り殺した。これを受けて謙信の養子の景虎(北条氏康の七男)は「鉄砲は遠くからの攻め道具であるから、浄真の働きのほうが抜群である」と刀で斬り殺した浄真を褒めた。

ただ、景虎の発言を聞いていた謙信は不服そうだった。

「手にする武具は、おのれの得意とする業物でやればよい。飛び道具を使っても、撃たれて死ねば、死は死だ。小太刀で討っても、敵を討ったことには変わりはない。鉄砲で殺したから卑怯でもなければ、刀で殺したから偉いわけでもない。人の上に立つ大将となるべき人間は軽率なことを言ってはならぬ」

と言って、景虎を睨みつけた。家臣はみな肝を冷やしたという。

上杉謙信に学ぶ競争力維持の方法

謙信は敵を倒す手段を差別してはいけないと説いたが、日本にはその後も「飛び道具は卑怯」という考え方が長く残り続けた。そして今も、目的のために手段を問わないというスタイルは広くは受け入れられにくい土壌がある。

もちろん、現代では法律やコンプライアンスなど守るべきものはあるが、環境に過剰に適応していては競争力を失いかねない。あれこれ体裁を考え過ぎて、目的を達成できなければ本末転倒だ。「50人皆殺し」の陰とはいえ、既成概念を取っ払って柔軟に考えることを謙信の言葉は教えてくれる。

(月・水・金連載、#13に続く)