山師の直観に乗った“埋め立ての旨みを知る男”と京成電鉄
1960年7月、オリエンタルランドは京成電鉄、朝日土地興業、三井不動産の3社によって設立されるが、それぞれの思惑は異なっていた。朝日土地興業の創業者である丹沢善利は千葉県船橋沖を埋め立て、その一部に温泉、大プール、遊戯場を備えるレジャー施設「船橋ヘルスセンター」を建設。1955年にオープンすると、入場料120円で1日ずっと遊べるという低価格路線が受け、爆発的な人気を呼んだ。最盛期には1日10万人超える入場者数を誇った。
丹沢と江戸英雄が接点を持ったのは1952年。出資を頼みに丹沢が江戸を訪ね、その後、三井不動産は朝日土地興業から埋め立てのノウハウを学ぶことになる。1950年代半ば、千葉県から江戸のもとに東京湾埋め立ての要請が来ていた。千葉県が最初に持ちかけたのは三菱地所だったが、東京・丸の内再開発で忙しいと断られた。三菱地所に後れをとる三井不動産としては、このチャンスを逃すまいと、積極的に埋め立て事業に参入していく。まずは五井・市原地区(市原市)の工業用地の埋め立てを手がけることになった。
ちょうどそんな頃、丹沢と京成電鉄社長の川崎千春との間で浦安の埋め立ての話が持ち上がっていた。もともとは1957年、藤生実太郎という土地ブローカーが浦安に登場したことに端を発する。旧江戸川の河口に干潮時になると全貌を現す「大三角」と呼ばれる57万㎡の広大なデルタがあった。この土地に目をつけた藤生は浦安町(現浦安市)に買収を申し入れた。
資金が足りない藤生は、船橋ヘルセンターの成功で飛ぶ鳥を落とす勢いの丹沢に話を持ちかけた。大三角の先には浦安の海が広がる。合わせて埋め立ててしまえば、ビジネスになると丹沢は踏んだ。埋め立ての旨みを享受してきたのだ。乗らない手はなかったが、巨大事業である。山師の藤生がパートナーではリスクが大きすぎた。

丹沢は懇意にしていた京成電鉄の川崎に協力を要請した。川崎はその2年前にアメリカ・アナハイム市にオープンしたばかりのディズニーランドを視察。こんな夢の国を日本でも創りたいとの思いが日増しに強まっていた。丹沢の話を聞きながら、川崎は埋め立て地に日本版ディズニーランドが完成している光景を想像し、心躍らせた。
とにかく、これまでにない一大事業になる。京成電鉄と朝日土地興業、そして藤生では心もとない。そう考えた川崎と丹沢は三井不動産を巻き込むことにした。社長の江戸英雄は川崎の旧制水戸高校の同窓である。川崎は江戸が快く引き受けてくれるものと思っていたが、そうではなかった。浦安の埋め立てに関し、川崎らはレジャー用地にするという条件で千葉県の許可を受けていた。埋め立て事業だけならまだしも、三井不動産はそれまでレジャー産業に参入したことはなかった。
渋る江戸を口説き落とそうと、自宅が数軒しか離れていない丹沢が毎朝、出勤前に訪ねてくる。朝駆け攻勢に音を上げた江戸はついに首を縦に振った。ひとたび同意すると、江戸の動きは早かった。白羽の矢を立てた高橋政知がオリエンタルランド設立の翌年に加わり、遠大な計画はようやくスタートラインに漕ぎ着けた。
(文中敬称略、#3に続く)