蒲生氏郷「自分を有能だと誇示する者を登用するな」の巻【こんなとこにもガバナンス!#38】

栗下直也:コラムニスト
「こんなとこにもガバナンス!」とは(連載概要ページ)

「自分を有能だと誇示する者を登用するな」
蒲生氏郷(がもう・うじさと、安土桃山時代の武将)

1556~1595年。織田信長、豊臣秀吉に仕える。1584年小牧・長久手の戦で功をあげ,伊勢松ヶ島12万石の城主となる。小田原征伐の功として会津若松へ移封し、42万石を領す。翌年の加増で会津73万石となり、徳川、毛利に次ぐ大大名となった。1593年には92万石になる。秀吉による毒殺説もある。

「主君のために頑張る」と思わせた氏郷流のおもてなし

いつの時代も人材戦略は組織にとっては大きな課題だが、人の採用が生死を分ける時代もあった。戦国時代だ。

蒲生氏郷は信長や秀吉に重用された武将のひとりだが、氏郷自身も部下からの信頼が厚かったことで知られている。最終的には92万石の大大名になるが、石高が少ない頃から、「人材こそすべて」と考えていた。

家臣を家に招き、食事を振る舞うだけでなく、自ら風呂を炊き、もてなした。当然、その家臣は感激し、主君のためにと頑張る。氏郷が主要な戦いで戦功を挙げられ、出世を遂げたのも、こうした家来の思いとは無縁ではないだろう。

もちろん、ただもてなすだけでは部下のモチベーション維持にも限界がある。

氏郷は常に自分の背中を見せた。戦場では新しい家臣を「銀の鯰尾の兜をかぶり、先頭に立つ者がいる。その男に後れをとらぬように励めよ」と激励した。家臣は、よく分からないままに、とにかく言われた通りに勢いよく先頭をかける兜を見つけて、続けて突撃した。この鯰尾の兜とは氏郷自身だった。

「自分の能力」を必要以上にアピールする人物は怪しい

人の採用にも独特の考えがあった。

玉川左右馬と呼ばれる博識の名士がいた。家臣たちから「かの者はきっとお家の役に立ちましょう。お召し抱えになっては」と助言を受けた氏郷は大いに喜んで左右馬を召し出し、賓客の礼をもって接遇した。

十日間連続で夜話の相手に迎えられた左右馬は、さまざまなことを語り、氏郷の問いに答えた。ところが、氏郷はその後にいくらかの金を与えて左右馬の採用を見送った。 

推薦した家臣は面目を失って大層がっかりし、老臣たちもこれを不思議に思って氏郷になぜ採用しなかったかのか尋ねた。氏郷は「玉川は見てくれが立派で、言葉も巧みだが、人の目をたぶらかす者に過ぎない」と切り捨てた。

家臣たちがまだ納得しない表情を浮かべていると、

「あやつはわしに初めて会うた時、大いにわしを賞め、次に家臣たちの無能を非難し、わしの気に入られようとあれこれ語った。また、自分の優れている点を賞めてもらおうと、さまざまな名士と交流している人脈をあれやこれやと並べ立てたのじゃ。このような者はたとえ智者だとしても、身辺に置いては良からぬ人物といえよう」

と理由を述べた。

この後、玉川はある家に仕え、家中の者たちは「世に知られた人物がやってきてくれた」と喜んだ。だが、しばらくすると玉川は老臣たちを失脚させ、自分の意のままにふるまい出したので、家臣の誰もが玉川を疎んじるようになった。ついには家そのものが傾き始めたところで、主人は己の過ちを認め、玉川を追い出したという。

自分をアピールする能力だけに長け、有名人とのネットワークを誇大にひけらかす人は現代のビジネスシーンでも珍しくない。

万が一、有能だとしても、「私が、私が」と押し出しが強い人は組織にうまく溶け込めない可能性が高い。少子高齢化が進む日本では人材の価値は経営資源の中でも相対的に高まる。誰を採るかの重みが増すだけに、氏郷の姿勢を参考にしたい。

(毎週水曜日連載、#39に続く)