栗下直也:コラムニスト
「こんなとこにもガバナンス!」とは(連載概要ページ)
「今日の経験を明日用いない者には大成功は望みがたい」
大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、戦前の経営者)
1837~1928年。大倉財閥の創設者。幕末の江戸で銃砲店を営んで成功する。1873年、貿易商として大倉組商会を設立した。大正期に大倉財閥の体制を確立。大倉土木(現大成建設)、大日本麦酒(現サッポロビール、アサヒビール)、帝国ホテルなど数多くの会社設立に関わる。
商傑、成金、戦争屋……多くの企業に関わった実業家
大倉喜八郎ほど評価が分かれる経営者はいないだろう。化学、製鉄、繊維、食品など、近代産業の礎になる企業を数多く興し、関連した会社は200社以上にのぼった。「商傑」と呼ばれ、作家の幸田露伴は「木にたとえれば四千年の大樹」と絶賛したが、戦争のたびに大儲けしたことで「戦争屋」「元祖成り金」と陰口も絶えなかった。
大倉の成功は機を見て新しいことに挑戦する姿勢にあった。
もともとは乾物店の店主だったが、後の成功の足掛かりとなったのは鉄砲販売だった。横浜港で鉄砲が輸入される様子からヒントを得て、江戸で鉄砲店を開業する。読みは当たり、やがて官軍、幕府軍、双方から洋式兵器の注文が入り大繁盛する。両軍に兵器を売ったことで責められたが「私は商人でございます。金を儲けるのが仕事でございます」と居直った。しかし、明治維新後はほどなくして、鉄砲販売からすっぱり手を引く。
大倉が目指したのは外国貿易だった。「まずは欧米の商業を学ぼう」と36歳にして私費で欧米を視察する。滞在中に大倉は岩倉使節団の大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らと話し合う機会を得る。この出会いが大倉の運命を大きく変えた。帰国後は貿易会社を設立するのみならず、建設、土木業にも進出したが、政府首脳とのパイプをつくったこともあり、大倉には鹿鳴館建設などの事業が舞い込む。
借金しながらカネを貸す……銀行などまっぴらだ
大倉のさらなる飛躍となったのが日清、日露の戦争だ。軍需品の調達、輸送はもちろん、戦地で塹壕や架橋用の製材工場も操業した。三井や三菱などの財閥が戦地での事業に二の足を踏む中、政府のむちゃぶりに応えることで莫大な利益を手に入れた。その元手で数えきれないほどの企業を興した。
その後、大倉は中国大陸に進出。製鉄所や炭鉱の開発に注力した。国策と重なっていたこともあり、大陸事業に傾倒するが、結果的にはこれが仇となる。第二次世界大戦の敗戦で大陸での事業と財産のすべてを失い、大倉財閥は壊滅的打撃を受ける。
大倉は「借金して仕事しながら、その一方で金貸しをすることができるか。おれは銀行などまっぴらだ」と傘下に銀行をもたなかったことも首を絞めた。大倉財閥は解体された。
大倉のビジネスモデルは現代では「ガバナンスの失敗」として取り上げられがちだ。ワンマン経営による管理体制の不整備、大陸事業の傾斜、金融機関を持たない……。だが、それは成功要素の裏返しでもある。大倉は武家の出身でもなく、薩長のような藩閥の後ろ盾もなかった。体裁にこだわらず、自分で道を切り開くしかなかった。常に新しいことに命がけで挑戦することが世に出る手段だったのだろう。
(月・水・金連載、#23に続く)