日本企業を覆う「コンプライアンス疲れ」の源流【ガバナンス時評#2】

日本企業への不信を高めた山一破綻と大和銀行事件

#1から続く監査役を含む日本の経営者たちがアメリカ型の内部統制の考え方に拒絶反応を示すなか、1997年11月、日本金融界に激震が走った。三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券等の相次ぐ破綻だ。すでにバブル経済は弾けており、景気が急速に冷え込んでいくなかで起きた金融機関の連続破綻に、日本はまさに金融恐慌の様相を呈していった。

しかし、破綻した東証一部上場の金融機関の1997年3月決算書を見ると、すべてが黒字になっている。決算発表から半年後に前触れもなく破綻したことで、日本の企業会計および会計監査の正当性や信頼性に重大な疑義が寄せられることになった。当時、英経済紙『フィナンシャル・タイムズ』には「不思議の国の会計」という日本の監査制度を批判する記事が掲載されたほどだった。

前年の1996年に在学研究でアメリカを訪れていた私だが、当地で話題になっていたのは1995年に発生した「大和銀行事件」だった。大和銀行事件とは、ニューヨーク支店採用の嘱託行員が変動金利債権の取引で出した損失を取り戻すために、文書偽造を行ってまで巨額の取引を行った経済犯罪である。

10年以上も発覚せず、その間も損失が積み重なり、最終的には11億ドル(当時のレートで1100億円)もの大穴を開けたのである。長期にわたり不正が発覚しなかったのは、大和銀行内部の管理体制の不備によるところが大きかった。

隠し通せないと判断した嘱託行員が大和銀行の上層部に手紙で行状を告白、さらに本店から大蔵省(現財務省)に報告が上がったものの、大蔵省からアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)への報告が遅れたことで、大和銀行の経営トップは元より、大蔵省の倫理観の欠如も指摘される事態に陥った。

大和銀行には当時の米刑法犯の罰金としては史上最高額といわれる3億4000万ドル(当時のレートで約350億円)の罰金を払ったうえ、アメリカからの完全撤退という厳罰が下された。大和銀行はもちろん、日本企業の隠蔽体質、企業統制能力が疑われることとなったのである。