【オリエンタルランド秘史#15】三井不動産「OLCと縁切り」観測に“対立の因縁”

引き延ばしを図る三井不動産「覚書」の条件

  • 坪井東(はじめ) 三井不動産社長。1915年生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒。38年三井合名入社。オリエンタルランド創設の立役者の一人、江戸英雄の後を受けて74年、三井不動産社長に就任。東京ディズニーランド計画に難色を示し続ける。
  • 高橋政知 オリエンタルランド第2代社長。1913年生まれ。東京帝国大学法学部卒。61年、オリエンタルランドに専務として入社。私財を投じた接待攻勢で浦安漁民の漁業権放棄交渉をまとめ上げた。初代社長の川崎千春(京成電鉄社長を兼務)の後を受けて78年、社長に就任。
  • 川上紀一 千葉県知事(1975~81年)。1919年生まれ。東京帝国大学法学部卒。44年内務省入省。「開発大明神」と称された友納武人・千葉県知事のもとで副知事を経て75年、知事に初当選#11参照

ウォルト・ディズニー・プロダクションズ(DIS=現ウォルト・ディズニー・カンパニー)との交渉のタイムリミットは1979年4月末。それまでに妥結できなければ、オリエンタルランドのTDL構想は吹っ飛ぶことになる。あと数日しかない時に、当初からTDLの建設に後ろ向きだった三井不動産の坪井東は最後の抵抗を試みていた。

オリエンタルランド社長の高橋政知は訪米の予定を伝えるために、三井不動産の社長室を訪ねていた。坪井は、契約はまかりならんの一点張りだった。直前に行われた三井不動産の経営会議でそう決まったという。押し問答の末、らちが明かないと見た高橋は「失敬する」と、ドアを蹴飛ばすように部屋を出ていった。この期に及んで何を言うのだと、頭に血をのぼらせていた。高橋対坪井の構図はもはや修復できないところまできていた。そもそも、この2人は馬が合わなかったのだ。

すぐに三井不動産会長の江戸英雄から連絡が入った。高橋をオリエンタルランドに引き込んだ張本人である。江戸と会うと、契約するのは構わないという。横に座っていた坪井が「ただ、条件がある」と口を挟み、懐から1枚の用紙を取り出した。そこには「覚書」とある。つい先ほど2人だけで面会した時は、出そうともしなかった紙だ。すぐに作れるわけはないから、あらかじめ用意していたのだろう。見せずに契約を思いとどまらせることができるのなら、それに越したことはないと坪井は考えていたに違いない。高橋が目を通したら怒りだすのは明らかだったからだ。

その覚書には、契約しても協調融資団が発足してその了承が出ない限り、効力は発生しないとの条件が記されていた。高橋は再びカッとなりながらも、江戸がいたので、声を張り上げるのはなんとか思いとどまった。

高橋政知の独断でついにディズニー交渉決着

やはり、坪井東はTDL計画を潰そうとしている――。高橋政知にはそうとしか思えなかった。それまでも三井不動産の横槍で何度も契約締結が引き延ばされてきたのだ。さらに引き延ばしを図るような覚書の内容をDISの幹部に伝えたら怒りだすに違いなかった。すでに高橋は腹を括っていた。坪井にはとりあえず、承知したと答えた。

覚書の件はTDL推進派の千葉県知事・川上紀一の耳にもすぐに入った。川上はその日のうちに高橋に電話をかけてきた。覚書をDISに見せたら「ノー」というに決まっていると心配する川上に、「成田空港で飛行機に乗る前に、そんなものは破り捨ててやりますよ」と高橋は笑い飛ばした。

自分が責任者なのだ。坪井が何を言おうが、知ったことではないという思いだった。1979年4月30日、ロスアンゼルスに到着した高橋はすぐにDISのカードン・ウォーカー社長と会い、その場で基本契約に調印した。少しでも間を置けば、日本からどんな邪魔が入るかわからない。自身の決心が鈍るのも怖かった。ドン・テータム会長やウォーカー社長が視察に浦安を訪れてからずっと続いた交渉はようやく決着を迎えたのだった。4年半近くの時が流れていた。

三井不動産グループの「三井ガーデンホテル プラナ東京ベイ」。立地は浦安だが、TDRとのシナジーは薄い。

(文中敬称略、#16に続く