“破格の売値”に日大会頭を連れて乗り込んできた笹川良一
1960年7月11日、オリエンタルランドは正式に発足した。設立時の出資比率は京成電鉄、朝日土地興業、三井不動産の3社が各32%、残りの4%は藤生実太郎が持った。といっても、藤生には手持ちの資金がなかったので、京成電鉄が肩代わりした。まだ、この段階では最大の功労者となる高橋政知は登場していない。ほんの短い間、代わりに物語の主役を務めるのは藤生である。この男の出現がなければ、千葉県浦安の地にディズニーランドがつくられることはなかっただろう。
オリエンタルランドが設立された日、浦安町(現浦安市)ではひとつの契約が成立していた。町が所有する旧江戸川河口の大三角と呼ばれる57万㎡(約17.3万坪)のデルタを藤生に坪720円、1億2500万円で売却した。この価格は当時としても、破格の安さだった。売買契約の公正証書には「本売買の目的物件は藤生において工業高等学校及び高等自動車学校を設置するため必要な施設及び設備の敷地とするものであることを浦安町と藤生は互いに了承した」と記されている。学校用地という前提だからこその価格だったのだ。
浦安町にとって、高校の創設は長年の悲願だった。藤生は町に日大の付属工業高校を誘致すると説明した。そこに思わぬ横槍が入る。全国モーターボート競走会連合会(現日本モーターボート競走会)の笹川良一会長が日大の吉田重二良会頭を伴って浦安に現れた。町の幹部たちに藤生の話はでっち上げだと伝えにきたのだ。笹川にとっても大三角の土地は魅力的に映ったのだろう。1955年に東京・江戸川区の中川に江戸川競艇場をオープンさせていたが、難水面でボートが転覆する事故も多く、笹川は新天地を探していたのだった。
右翼の大立者であり、公営競技を牛耳る笹川を浦安町側は警戒したようだった。もっとも、藤生はそれにも増して怪しげだった。名刺には日本プラスチック社長と猿ヶ京温泉観光開発社長の肩書があった。群馬・猿ヶ京温泉で旅館を経営していたのは事実だったが、日本プラスチックのほうは実体がなかった。東京・神田に事務所を構え、裏の顔である土地ブローカーとして暗躍していた。そんな人物が大三角を手に入れることになったのは、町の有力者のほとんどが藤生から接待攻勢を受け、いろいろつかまされていたからだ。すでに笹川が出る幕はなかった。
1億2500万円はオリエンタルランドが払った。だが、名義に名を列ねたのは同社ではなく藤生だった。本人がそのほうがいいと主張したのだ。発足したばかりで何の実績もない会社では、浦安町側も不安になるからというのが理由だった。

(右後方はTDRに隣接するホテル群、筆者撮影)