第三者機関「監査」にスケープゴートの恐れ
ここでもうひとつ、会計的視点から言っておきたいのは、「監査」を都合よく使わないでほしいということである。「第三者機関による監査」と簡単に言っても、いわゆる政治資金報告書の中の支出内容等をざっと見て確認することや、単式簿記による帳簿の調査をしても、経済行為の実態について検証することは出来ないからだ。
本来の意味での監査を行うためには、会計報告にかかわる内部統制が有効に整備・運用されており、財務諸表の数値が複式簿記の原理に則って、総額主義で処理されていることが大前提となる。そうでないにもかかわらず、「監査を経た」ことをもって政治家が自らの潔白性を語り、問題が発覚したら監査担当者をスケープゴートにするようなことがあっては、現在の「秘書がやりました」と何ら変わらない構造が温存されることになりかねない。
何より「監査」は誰もが出来る作業ではない。監査を行う主体自体が独立し、監査を受ける組織の内部統制も機能していることが前提で、「会計専門家の監査を経ているから大丈夫だ」という信用が担保されている必要がある。単に「秘書が確認しました」「組織と縁のある会計専門家がチェックしています」というものでは、帳簿外のキックバックなどを防ぐことはできないのだ。
自己責任の前提は「正しい情報開示」
日本は押しなべて会計後進国である。それはこれまでにも当連載で触れた「アカウンタビリティ(Accountability)」概念が欠如しており、本来「説明」や「報告」を意味するAccountingを「会計」と訳してしまったことも、ひとつの要因であろう。日本では社会一般でも会計的発想は共有されていないが、政治家の間ではなおさらというほかない。会計と言えば、単に技術的な処理をさす簿記を思い出す人が大半の中で、本来の「会計」のあるべき姿を打ち出し、政治家も含む国民の共通理解にしていかなければならない。
説明責任は、民主主義の原点である。民主主義は「個人個人が自由に判断して意思決定を行うが、その結果は本人が負う」という自己責任社会であるかのような風潮が俄然強まっているようだが、これには大前提が満たされていてのことだ。
個人の選択、判断は正しい情報に基づくものであるべきで、隠蔽や粉飾、虚偽の情報を流布されていた場合などには、判断の誤りの責任を負うことはできない。小泉政権期に「ペイオフ」という制度が出来た。これは周知の通り、銀行が破綻した際、いくら預金があっても1000万円までしか保護されないというもので、今も続いている。自分が大事な財産を預けている銀行の財務状況くらいは預金者個人が把握し、危ないと見たら資産を別の銀行に移すべきで、それは自己責任の範疇だという議論だった。
だが、預金している銀行が正しい財務状況を公表しているとは限らない点に問題がある。「破綻して初めて、粉飾を行っていたことが判明した」という場合、どうやって預金者がリスクを感知できるというのか。事実、都市銀行をはじめ、金融機関が不良債権に喘いでいた当時、その財務諸表は到底信頼に足るものではなかった。
議員についても同様である。「どうしてキックバックでぼろ儲けしている議員なんかに投票したんだ!?」と言われても、投票した際にはどんな有権者も支持した候補者が「政治資金を誤魔化している」ということなど知り得ない。少なくとも、現在の政治資金規正法のような情報開示では、土台無理な話である。
国民が正しい判断を下せるためにも、また民主主義を正しく機能させるためにも、議員は誠実に、かつ、徹底的に説明責任を果たすべきである。政治資金の扱いは、その最たるものと言える。
(了)
取材・構成=梶原麻衣子