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同意なき買収と取締役会の覚醒:「オペラ座の怪人」に学ぶガバナンスの智慧【遠藤元一弁護士の「ガバナンス&ロー」#30】

“舞台裏”からの挑戦状

あなたの会社に、明日、同意なき買収提案が届いたら、取締役会は何を議論するのか。その答えを持っている日本企業は実は驚くほど少ないのではなかろうか。

第一生命ホールディングスによるベネフィット・ワン買収、富士ソフトをめぐるKKRとベインキャピタルの米投資ファンド同士のTOB(株式公開買い付け)合戦に加え、ニデックによるTAKISAWA買収や、SBIホールディングスによる新生銀行買収……。これらを見れば、「同意なき買収」はもはや一部の例外事案ではない。経営陣の賛否を前提としない買収は、業種や企業文化を問わず、日本企業の取締役会に突きつけられる“現実の問い”になっている。

これらの取引は適法だ。株主にプレミアムを提示し、金融商品取引法の開示規制に準拠し、経済産業省の「企業買収における行動指針」に従っている。かつて「敵対的」と忌避された買収は、いまや資本市場の正当な手法として認知されつつある。

もっとも、手続きに問題はないとしても、これは本当に良い買収なのだろうか? そのような違和感はなお容易には払拭できない。

ミュージカル『オペラ座の怪人』では、パリ・オペラ座の地下に棲む怪人が、華やかな舞台の陰で劇場を支配していた。同意なき買収の世界にも似た構造がある。TOBは30日で完了するが、その判断の正否が明らかになるのは10年後だ。株主は今日決断を迫られるのに、答え合わせは誰も見届けられない未来にある。この構造的な不確実性を、以下「判断不能性」と呼ぶ。

「判断不能性」という構造的問題

投資家には見えないが、企業内部には存在する情報がある。進行中の資本提携、開発途上の研究開発、未公表の取引、醸成途上の企業文化、これらが実質的な企業価値を生み出すこともある。

買収者が対象企業に提示するプレミアム付きの買収価格が捉えているのは、市場に可視化された価値に過ぎず、財務諸表に表れた過去の蓄積と、市場が推測する将来の可能性だけである。技術者の育成に費やされた10年、顧客との信頼関係を築いた15年といった長期にわたる蓄積によって形成される無形の価値は、通常30営業日程度の限られたTOB期間では測定できない。

同意なき買収の最終決定者は株主であり、TOBへの応募は任意だ。しかし、時間的制約と情報格差による構造的な強圧性に晒される株主にとって「自由意思」は制限的である。買収者は少なくとも数カ月、場合によっては数年間の分析を経て優位に立つ一方、個人株主は断片的な情報をもとに短い期間内での判断を迫られる。

時間軸の非対称性:市場と企業の2つの時計

買収局面において「2つの異なる時計」が同時に動いている。市場の時計は秒単位で即時性を刻み、TOB期間という極めて短いスパンで解を求める。一方で、企業の時計は年単位で持続性を刻み、数十年かけて価値を積み上げる。本連載#27でも触れた市場と企業の時間軸の非対称性こそが、同意なき買収における判断不能性を最も深刻化させる要因である。

企業の価値形成には長い時間を要する。研究開発、人材育成、取引関係、企業文化、これらは数年、数十年のプロセスの中で蓄積される。しかし市場は即時性を要求する。株価は秒単位で変動し、TOB期間は30〜60日で終了する。コーポレートガバナンス・コードが掲げる「持続的成長」は長期の時間軸を前提とする一方、同意なき買収は短期市場の力学を企業に持ち込む。この時間軸の衝突が、ガバナンスの実効性を揺るがす。

同意なき買収に「備えていない取締役会」が問われること:平時にしか答えられない問い

もし、あなたの会社が明日、同意なき買収のターゲットとなる事態に直面したと想像してほしい。取締役会では四半期業績や来期予算を議論している。しかし、同意なき買収提案を受けたとき、株主にどのような説明を行い、なぜ応じるべきではないと説得するのかを、平時に議論したことがあるだろうか。

IR(投資家向け広報)の場で成長戦略を語るとき、買収提案者と同じ熱量をもって、その戦略を実行するコミットメントを示してきただろうか。自社の「解体価値」を算定し、事業部門ごとに売却した場合の合計額と比較したうえで、現在の企業価値を説明できるだろうか。

取締役会は形式的には機能していた。しかし、本来問われるべき問いが放置されてきた。買収提案を受けてから慌てるのではなく、平時の取締役会において、定期的に問い直すべき論点がある。

問い1 「なぜこの会社は存在し続けるのか」を説明できるか
――企業価値とは何かを、取締役会は株主に向かって自分の言葉で語れるか。

問い2 「手放すべき事業」を先送りしていないか
――「この事業は本当に当社が持つべきか」。この問いを避けた瞬間、買収者は「我々が代わりに決断する」と名乗りを上げる。

問い3 あなたの経営は、資本を増やしているか
――PBR(株価純資産倍率)1倍割れは、市場からの静かな、しかし明確な警告である。

問い4 経営陣が替わっても価値は生まれないと言い切れるか
――「この経営陣でなければならない理由」を説明できない限り、買収者の主張を退けることはできない。

問い5 その判断は、少数株主のためのものか
――安定株主、取引先、従業員への配慮は重要だ。だが、それは少数株主の犠牲を正当化する理由にはならない。

これら5つの問いに、年に一度でも真剣に向き合ってきた取締役会は、同意なき買収提案を受けたとしても慌てない。なぜなら、すでに自らの言葉で説明すべき「答え」を一定程度持っているからである。

もっとも、それでもなお、取締役会が有事において判断不能に陥る局面は避けられない。次に、その判断不能性を縮減するための運用上の原則を整理しておきたい。

「判断できない取締役会」にならないために:有事の意思決定を支える3つの原則

同意なき買収提案が現実のものとなった瞬間、取締役会には時間的制約、情報の非対称性、利害対立が一挙に押し寄せる。このとき重要なのは、正解を即断することではない。判断不能性そのものを縮減する枠組みを持っているかである。

以下の3つは、あらゆる局面で万能の答えを与えるものではない。しかし、取締役会が思考停止に陥ることを防ぐための、最低限の補助線となる。

原則1 時間を買え
――事前警告型買収防衛策は、拒絶のための武器ではない。株主が考える時間を確保するための装置である。

原則2 長期価値を、数字と物語で示せ
――3年・5年・10年後の技術、人材、競争優位を、買収提案と比較可能な形で市場にさらす。

原則3 約束なき買収は、信用しない
――研究開発、人員維持、統合後ガバナンス。長期価値を守る具体的コミットメントを、買収者に要求せよ。

さらに、これら3つの原則を横断する基盤として、ステークホルダーとの継続的対話が不可欠である。株主、従業員、取引先との対話を通じて、これまで企業内部にとどまり言語化されてこなかった前提――技術・人材・文化・関係性――がいかに長期価値を支えているかという認識を共有認識へと転換する。

判断不能性は、沈黙から生まれる。それは情報が不足しているからではない。語られるべき前提が、語られてこなかったからである。語ることによってのみ、その輪郭は明らかになる。

同意は企業価値を保証しない:逆説のパズル

買収における「同意」は、企業価値の向上を保証しない。逆に、同意のある買収が企業価値を毀損することもある。買収者が魅力を感じる企業の中には、経営陣の交代により潜在価値を引き出せる企業も含まれる。

同意なき買収提案が公表された際に対象企業の株価が大幅に上昇するケースは珍しくない。既存経営陣の下では実現されていなかった企業価値が、経営権の移転によって顕在化する可能性を、市場が先取りして織り込むからである。

逆に、MBO(経営陣による買収)は経営陣の「同意」を前提とするが、提示価格が市場から「安すぎる」と批判されるケースは少なくない。経営陣は自らの保身や経営裁量の確保を重視し、少数株主の利益を最大化するインセンティブが働きにくい。

同意の有無は、企業価値向上の指標ではない。それは結果であって、原因ではないのだ。

公正性担保措置の限界:照明が明るいほど、影は濃くなる

同意なき買収の正当性は、情報開示、フェアネス・オピニオン、ガイドライン遵守により担保される。しかし、これらには構造的な限界がある。

情報開示について、2024年のニデックによる牧野フライス買収提案では、300ページ超の届出書が提出された。しかし、長期的な技術統合戦略や雇用方針については、数行の抽象的記述のみだった。量的充足は質的理解を保証しない。

フェアネス・オピニオンは、第三者機関による価格評価だが、財務数値の現在価値を示すにとどまる。企業文化の毀損リスクや技術継承の失敗可能性は計算式に入らない。

ガイドライン遵守により、チェックリストを満たせば手続きは完了する。しかし経産省指針が求める「企業価値の向上」は、10年、20年のスパンで初めて検証できるものだ。

これら3つの措置により、「正当な手続きが踏まれた」という印象は即座に完成する。しかし判断不能性という本質的な問題は、手続きの完了後も残存し続ける。

取締役会の覚醒:“見えない存在”と対峙する者たち

同意なき買収の時代において、取締役会にも覚醒が求められている。企業買収行動指針が策定され、同意なき買収が正当な選択肢として認知された今こそ、自社の内情をよく知る取締役会が、自社にとって「良い買収とは何か」という基準を事前に定義する主体となるべきではなかろうか。

ただし、避けて通れない現実がある。取締役会が同意なき買収への対応を主導する際、構造的な利益相反が内在する。既存経営陣で構成される取締役にとって、買収の成立は自らの地位喪失を意味することが多い。

だからこそ、この利益相反を自覚し、それを乗り越えるガバナンスの仕組みが試されている。独立社外取締役を中心とした特別委員会の設置、外部専門家による独立した企業価値評価の取得、株主への透明性の高い情報開示、これらは単なる手続きではなく、取締役会が自らの限界を認め、より高次の判断に到達するための装置なのだ。

“悪役”不在の悲劇:合理性の集合的失敗

同意なき買収には、明確な“悪役”は存在しない。買収者は株主価値向上を掲げ、株主は合理的な経済判断を下し、取締役は法的責任を回避し、規制当局は市場原理を尊重する。すべてが制度設計通りの行動だ。

それでも個別合理性の積み重ねが、全体最適を阻害することがある。各々が合理的に振る舞った結果であっても、10年後に「あの買収は失敗だった」という結論に至る可能性はぬぐえない。

この悲劇を回避する鍵が、判断不能性の源泉となる情報を積極的に開示し、ステークホルダーとの対話を通じて共有認識を形成する、取締役会の能動的ガバナンスだ。

結び:仮面を残して消えた怪人、しかし対峙は続く

TOBの成立は物語の序章に過ぎない。買収後の企業統治、少数株主の処遇、従業員の帰趨、評価は10年、20年にわたり続く。良い買収の判断は、常に暫定的で書き換え可能である。

同意なき買収は、今後、M&Aの手法として定着していく。それは資本市場の必然として受け入れるしかない。ただ、この新しい現実の中で、取締役会が戦略主体として覚醒する道がある。情報の非対称性を縮減し、株主と市場に納得できる説明を提供し、短期と長期の時間軸を架橋する。

オペラ座の怪人は、倒されて結末を迎えるのではない。舞台には白い仮面だけが残され、彼の笑い声は、より深い地下へと遠ざかっていった。企業という劇場において、判断不能性という見えない存在が完全に姿を消すことはない。

取締役会に求められるのは、その存在を退治することではなく、その正体を光の下にさらし、対峙し続けることだ。短期のプレミアムという眩しさに目を奪われることなく、長期の不確実性を認識し、持続的成長という複雑な旋律を奏で続ける。

覚醒した取締役会は、その仮面を見つめ続ける。見えない存在の気配を忘れず、必要なときには躊躇なく深層に降りていく。光と影の両方を見る目を持ち、速い時計と遅い時計の両方に耳を傾ける。それこそが、真のガバナンスの姿である。

劇場では今夜も、演目と演者を変えながら、幕が上がる。そして、あなたの会社にも、月曜の朝は必ず来る。

(次回は2026年3月5日配信予定)