遠藤元一:弁護士(東京霞ヶ関法律事務所)
内部通報制度を経営戦略ツールとして捉えることは、繰り返し述べてきた通り、通報を単なる火消しの情報から、経営の意思決定に直結する「知」へと昇華させることである。
通補制度は、センサー(感覚器官)として、現場の歪みを映す鏡として、改善を呼び込む提案プラットフォームとして、そして組織の知を蓄積する学習装置として機能する。これらの機能をパートⅢのような条件で設計し、それを経営幹部がパートⅣの旗振り役・保証人・意思決定者・統合者として担保したうえで、パートⅤの運用原則に基づいて日々動く時、通報制度は初めて呼吸を始める。
3~5年で成果は大きく変わる
もっとも、バートⅢ~バートⅥを実装した通報制度を備える企業が極めて少なく、また、これらを実装することが相当に困難であることは、業種・業態が異なる多数の企業や大学の外部通報窓口の経験等から筆者も容易に想像できる。
しかし肝要なのは、経営の中核資産として「呼吸を始める通報制度」を装備することを決意し、確実に実現するために第一歩を踏み出すことであろう。
この呼吸は、企業の免疫力を高めるだけでなく、未来を切り拓く力になる。リスクの立ち上がりを早く掴み、目標の歪みを修正し、学習を蓄積し、意思決定を現場に根付かせる。内部通報制度は“守りの壁”を越え、“攻めの橋”となる。制度が「使われる装置」として稼働する時、企業は変化に適応し競争優位を築くことができる。
内部通報制度の成否を決めるのは、設計の巧拙ではなく、経営幹部の一貫した姿勢である。制度を「必要悪」として最小限の対応で済ませようとする企業と、「競争力の源泉」として積極的に活用しようとする企業では、早ければ3年後、遅くとも5年後の結果が大きく異なる。
前者では制度は形骸化し、現場の声は枯れ、問題は水面下で拡大し、やがて外部からの指摘や事故によって危機が突如噴出する。後者では制度は進化し、現場との対話は深まり、改善は継続し、危機を未然に防いで競争優位を築いていくことも期待できる。
内部通報部門は「ベネフィットセンター」になり得る
ところで、多くの企業の経営幹部には、内部通報制度への投資はコストセンターに見えることだろう。専門人材の配置、システムの構築、外部機関との連携、継続的な研修などに年間数千万円から億単位の費用がかかる場合もある。
しかし、それは短期的なコストである。実は通報制度への投資の中長期的な効果はそれを大きく上回る。重大事故の未然防止、法令違反の早期発見、品質問題の市場への流出阻止、顧客クレームの削減、従業員満足度の向上、優秀人材の定着促進などの効果を金額換算すれば、投資対効果は10倍、20倍にも達する。
しかも、パートIで紹介した製造企業のように、内部通報を健全に運用することによって、今度は通常のレポートラインが健全性を取り戻し、通報制度の運用コストは漸減していくことになる。
さらに、ESG投資の拡大により、実効的な内部通報制度を持つ企業は資本調達において明確な優位性を持つ。機関投資家は単に制度の有無ではなく、運用実績と改善事例を詳細に評価し、投資判断に反映させている。通報制度は、事業部門が時としてもたらす企業価値を毀損させるバグを取り除くベネフィットセンターと捉えることもでき、さらには企業の説明責任と信頼性を担保し、企業価値の基底をなすインフラとして資本市場との接続点にもなっている。
デジタル技術の進化も、制度の可能性を広げている。AI(人工知能)による通報内容の自動分析、IoT(モノのインターネット)センサーによる異常の検知、ブロックチェーンによる通報データの改ざん防止など、技術の進歩により制度の精度と効率は飛躍的に向上している。しかし、技術は手段であって目的ではない。どれだけ高度なシステムを導入しても、経営の姿勢が消極的であれば制度は機能しない。逆に、経営の意志が明確であれば、シンプルな仕組みでも大きな成果を上げることができる。

通報制度の価値は「使った結果」にあり
現代の企業競争は国境を越えてクロスボーダーに展開され、サプライチェーンは地球規模で構築されている。1つの企業の問題が瞬時に世界に拡散し、ブランド価値を毀損するリスクが常に存在する。内部通報制度は、このようなグローバル競争において企業の持続可能性を担保する必須のインフラである。通報制度を持たない企業は論外として、通報制度が形骸化している企業は、予期せぬ形で取引停止や国内とは比較にならない多大な制裁金などを課される事態に直面するリスクを抱えている。
最後に、問いをひとつ残す。
あなたの会社で、直近数回の経営会議で、通報がきっかけとなって論じられた議題はあっただろうか。
もし答えが曖昧なら、それが最初の改善課題だ。
通報制度は、待てば自然に育つものではない。設計し、使い、更新し続けることでしか、呼吸を始めない。経営が“使う側”に回る時、通報制度は企業価値を生み続ける中核資産になる。そこでは、通報は恐れられるものではなく、歓迎される資源となり、経営は現場とともに変化に適応し続ける。
制度の価値は「存在すること」ではなく、「使った結果」で測られる。経営にとって制度は耳であり、目であり、触角である。耳は澄ませなければ聞こえず、目は開かなければ見えず、触角は伸ばさなければ感じない。装置はすでに備わっている。経営がそれを使うかどうかが、明日の損益と評判を分ける。静かな決断の時は、すでに訪れている。
(了)
