野村 彩:弁護士(和田倉門法律事務所)、公認不正検査士(CFE)
避けて通れない「課長は女性部下に抱きついたのか?」の事実認定
紛争解決において、弁護士なら誰もが知っているが、多くのビジネスパーソンが意識していない、絶対に必要な能力とは何か?
それは、事実認定力である。
前々回(#8)、「事実認定」は専門的な知見が要求される、法曹の必須スキルであるとご紹介した。弁護士とは紛争解決のプロなのだが、いざこざを解決するに当たって、何よりもまず必要なのは「事実として何があったのか」ということである。
前々回にお示しした社内のセクハラ事件の例で言えば、このときの最終的な解決方法としては、行為者に対する懲戒処分や被害者への和解金の支払いなどが考えられる。しかしながら、それらをするためには、そもそも懲戒処分や支払いの前提となる「事実」が存在していなければならない。
被害者が「課長に抱きつかれた」と主張しているのに対し、課長が「俺はそんなことはしていない!」と反論している場合、「課長は本当に被害者に抱きついたのか?」という点について決着をつけないと、次のステップに進めない。
したがって、裁判においては「課長は被害者に抱きついた」という「事実」を裁判官に「認定」してもらうための作業が必要となる。これが事実認定である。
とはいえ、この事実認定の能力は、何も法曹だけに必要なスキルではない。元東京高等裁判所判事(部総括)の加藤新太郎氏は、次のように述べて、日常生活における事実認定の技法の重要性を指摘する*1。
〈兄弟げんかをしているのを見つけた母親は、どちらが先に手を出したかを尋ね、その理由を質し、手を出さざるを得ない仕打ちを受けたのかを判断したうえで、一方または双方を叱ることが必要である。原因分析をしないまま、「とにかく喧嘩は駄目」と叱るだけでは子供は言うことを聞かない。原因を言い分と状況から認識することは事実認定であり、賢母であるためには事実認定の技法を備えることが必要である。〉
*1 加藤新太郎「民事事実認定の技法」(2022年)弘文堂
これはビジネスパーソンにおいても同様である。特に経営者たるもの、幾多もの修羅場がこれから待ち構えていることを考えると、紛争やトラブルに適切に対応する能力を備えておくことが必須であろう。加藤氏の言を借りると、優れた経営者であるためには〈事実認定の技法を備えることが必要〉なのである。
ただし、事実認定を行うに当たっては、その前提として「主張すべき事実とは何なのか?」を整理しなければならない。前々回に述べたとおり、“法的に意味のある事実”と“法的に意味のない事実”を区別する作業が必要となる。これを要件事実論という。
ヒアリングであれこれ出てくる「事実」を整理するには
これをセクハラ事案に当てはめると、例えば被害者がセクハラ行為について課長に対し不法行為に基づく損害賠償請求をする場合は、要件事実として
• 一定の権利または法律上保護される利益があること
• これに対する加害行為
• 故意があること、または過失を基礎づける事実
• 損害の発生およびその額
• 因果関係
が必要となる*2。
*2 加藤新太郎『要件事実の考え方と実務(第4版)』103頁(2019年)民事法研究会
他方で、懲戒処分の事案の場合は少し異なる。例えば、会社が課長を懲戒処分として降格をしたのに対し、行為者=課長が「俺はセクハラなんかやってない! 降格はおかしい! 俺はまだ課長だ!」と主張して訴えを提起してきた場合、会社は抗弁*3で懲戒処分としての降格を主張し、「就業規則における懲戒降格の定め」「これに該当する懲戒事由の存在」「懲戒事由を理由とする降格の意思表示」の要件事実を提示することになる*4。
*3 抗弁とは、請求原因事実と両立して、かつ請求を排斥することができる事実をいうが、ここではいったん「反論のこと」くらいに考えておいていただければと思う。
*4 岡口基一『要件事実マニュアル 第4巻(第5版)』586頁(2017年)ぎょうせい
いずれにせよ、本件の「課長抱きつき疑惑事件」では、「加害行為」または「懲戒事由の存在」として、「課長が、いついつに、どこどこで、誰々に抱きついたこと」を立証する必要がありそうである。
