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選択する勇気、説明する義務:ステークホルダー資本主義の成熟【遠藤元一弁護士の「ガバナンス&ロー」#29】

サーカスの綱渡り芸人と経営者の共通点

サーカスの綱渡り芸人は、1本の綱の上でバランスを取る。観客は息を呑み、芸人の集中力に魅了される。しかし、もし芸人が同時に、例えば7本もの綱を張り、そのすべてを渡ろうとしたらどうなるだろうか。完璧を目指すその試みは、おそらく破綻する。

留意する必要があるのは、これが経営者にも当てはまるという点だ。取締役会で並ぶKPI(重要業績評価指標)である、ESG(環境・社会・ガバナンス)、人的資本、DX(デジタルトランスフォーメーション)、収益性、株主還元、従業員満足度などは、すべて「重要」とされ、誰も「削る」と言えない。経営会議の議題は増え続けるが、リソースは有限のままだ。

例えば、花王。同社は近年、ESGとステークホルダー資本主義の実践者として、多様な取り組みを展開してきた。しかし筆者を含む少なからぬ経営実務家が、ある問いを共有している。

「多様なステークホルダーへの対応が、なぜ企業価値の持続的向上につながっていないのか?」

この問いの答えは、「すべてのステークホルダーを同時に満足させる」というアプローチそのものにある。本稿では、複数の企業事例を通じて、トップマネジメントに求められる「戦略的選択と優先順位づけ」の本質を論じる。

トレードオフの現実:対応は多いほど善か?

ESG時代のステークホルダー対応は「多ければ多いほど良い」と考えられがちだ。しかし、企業資源は有限である。経営陣の時間、組織の注意力、財務資本――これらすべてに制約がある中で、無限の対応は可能だろうか。

花王の事例:市場との対話の失敗

花王は、「全方位対応」の限界を示す格好の事例である。同社は日本企業におけるESG経営の先進事例として長年評価されてきた企業である。環境分野では中長期の脱炭素目標やプラスチック削減方針を掲げ、社会分野ではDEI(多様性・公平性・包括性)の推進やサプライチェーンにおける人権デューデリジェンスを進め、ガバナンス改革にも継続的に取り組んできた。国内外のESG評価機関から一定の高評価を受けてきた点は、客観的事実である。

一方、2020年代に入ると、同社の収益性や株式市場での評価については、必ずしも高い成長期待が織り込まれているとは言い難い状況が続いた。構造改革の進展により業績改善の兆しは見られるものの、株価やバリュエーション指標は、市場平均と比べて相対的に慎重な評価にとどまってきた。

この点について、市場関係者の間では、花王のESGへの取り組み自体が否定されているというよりも、「ESG施策がどのように事業競争力や将来の収益成長に結びつくのか」という説明が十分に共有されていなかったのではないか、との指摘がなされてきた。すなわち問題はESGの是非ではなく、経営の優先順位や収益ドライバーとの関係性が、投資家にとって必ずしも明確に語られてこなかった点にある。

花王は、カーボンニュートラル、資源循環、人的資本、人権対応など幅広いテーマに同時に取り組んできたが、その結果、投資家からは収益性との関係が見えにくいとの声が出る一方、環境・社会分野のステークホルダーからは取り組みのスピードや踏み込みの度合いについて、さらなる対応を求められる場面もあった。

こうした状況を踏まえ、2023年以降、花王は中期経営計画において「選択と集中」をより明確に打ち出し、収益性改善を重要課題と位置づけるとともに、ESG施策についても事業との関連性が高い領域に重点的に資源を配分する方針を示している。これはESG経営からの後退ではなく、持続的な企業価値向上を目的とした戦略的な再整理と位置づけることができる。

トヨタ自動車のEV戦略見直し:意思決定の成熟

トヨタ自動車も、電動化をめぐる優先順位の再整理を迫られてきた企業である。2021年、同社は2030年までにEV(電気自動車)年間販売350万台という目標を公表したが、その後も環境団体や一部の投資家からは、EVシフトのスピードが十分でないとの批判を受け続けてきた。

一方、2023年以降、欧米を中心にEV市場の成長鈍化が顕在化した。販売の伸びは想定を下回り、充電インフラの制約、車両価格の高さ、航続距離への不安といった課題が改めて意識されるようになった。

こうした環境変化を踏まえ、トヨタは2024年にかけて電動化戦略の説明を改めて整理した。EVの販売目標自体は維持しつつ、ハイブリッド車への投資を継続する「全方位戦略」の合理性を強調したのである。トヨタは、急速なEV一本化は既存技術への投資効率やサプライチェーンの雇用、さらには多様な顧客ニーズへの対応という観点で課題を伴うと説明している。

この判断の妥当性については、将来の市場動向を踏まえた検証を要するだろう。しかし重要なのは、批判を前提としながらも、自社として選択した戦略とその理由を明確に言語化し、対外的に説明した点にある。ここで問われているのは企業規模ではなく、環境変化の中で意思決定を更新し続ける成熟度である。

ディズニーの複合的ジレンマ:ガバナンス構造の不全

ウォルト・ディズニー・カンパニーの事例は、企業の社会的・政治的立場と行政府との関係が複雑に絡む問題を示している。2022年にフロリダ州で成立した「Don’t Say Gay(ゲイと言うな)」と呼ばれる法案に対して、同社は当初慎重な対応をとった後、最終的に公に反対の意向を示した。社内外では対応の遅れに対する批判が出た。

この反対表明に対し、一部の保守系メディアや論者から批判の声もあり、その後フロリダ州知事の主導により州議会はディズニーの「ウォルト・ディズニー・ワールド」が位置する特別区(リーディ・クリーク改善地区)の自治権や債券発行などの特権を含む税法上の優遇制度を見直し、名称変更と州知事による管理委員会設置など運営構造の変更を含む新たな枠組みを成立させた。

また、ディズニーは同時期にフロリダで計画していた新社屋の建設計画を中止することを発表し、企業戦略にも影響が波及している。

全方位対応が生まれるメカニズム

制度的同調のプロセス

花王やトヨタのESG推進は、業界トレンドへの適応の側面が強い。

MSCI、Bloomberg ESGといった評価機関のスコアが、いつの間にか経営戦略の重要要素になる。「他社がやっているから」「市場が求めているから」という同調プロセスが、本来の判断基準を曖昧にする。

ここで見落とされがちなのは、法務・管理部門が無意識にこの構造を加速させている点である。コンプライアンス部門、サステナビリティ推進室、ESG担当……彼らは善意で制度を整備する。

しかしその善意こそが、全方位対応を制度化してしまう逆説を生む。「止める理由」を持ちにくい専門部門は、中立ではいられない。追加的な施策には賛成しやすく、削減には抵抗しやすい構造が、組織に埋め込まれている。

委任関係の複雑性

誰の利益を優先すべきかが不明確なとき、経営者は「全員に配慮する」戦略に向かいやすい。複数のプリンシパルが存在する状況で、明確な優先順位がないとき、場当たり的な対応を繰り返しがちになる。

決断の心理的ハードル

人間は「失うこと」を回避したがる。企業が一度拡大したESG施策を縮小しにくいのは、「後退」と受け取られる懸念があるからだ。短期的な批判を過大評価し、長期的な戦略的明確性の価値を過小評価する心理的傾向が、選択を難しくする。

これら3つが複合的に作用し、「戦略的に誰かを優先する」決断を困難にする。結果、取締役会は戦略主体ではなく、外部圧力の調整機関と化してしまう。読者である管理部門自身が、この問いに含まれている。

戦略的洗練の4つの側面

この状態から脱却するには、トップマネジメントの「戦略的洗練」が必要である。4つの側面を提示したい。

認識の明確化

すべてのステークホルダーを同時に最大限満足させることは不可能という現実を直視する知的誠実性。トレードオフの存在を認め、優先順位が必要であることを組織内で共有する。

選択への覚悟

批判を受け入れる組織的耐性。短期的な批判と長期的な戦略的明確性を比較衡量し、後者を選ぶ組織的強さが求められる。

対外説明の透明性

市場や社会に対して、選択の理由を率直に説明する姿勢。花王やトヨタの経営陣が「選択と集中」や「全方位戦略の正当性」を明言したことは、この透明性の一例だ。

制度への組み込み

この脱却を確実なものにするには、精神論ではなく、ガバナンス構造という「制度」に優先順位を組み込む必要がある。形骸化している「サステナビリティ委員会」を、意思決定機関としての「ステークホルダー戦略委員会」へと再定義し、「今年度の優先ステークホルダーTOP3」を決議するといった権限を持たせ、この決議を指名・報酬委員会と連動させることが不可欠だ。

実践への提言

率直に言えば、これらの提案を実行すれば、社内調整コストは確実に増える。既存の施策に関わる部門からの抵抗、ステークホルダーからの批判、短期的な評価の低下……いずれも避けられない。しかし、それ自体が「戦略である証拠」だ。

年次優先課題の設定

年度ごとに「必須対応3項目」を取締役会で決議する。花王であれば、株主価値(収益性の回復)、顧客価値(製品品質とイノベーション)、環境対応(事業と直結する領域)といった形だ。

ガバナンス構造の再設計

「ステークホルダー戦略委員会」を新設し、年2回「今年度の優先ステークホルダーTOP3」を決議する。

施策の定期的見直し

すべてのESG施策に3年の時限を設定し、継続には財務インパクトと戦略的意義の評価をクリアする必要がある。

CEO(最高経営責任者)報酬設計への反映

全方位的なESGスコアではなく、取締役会で決議した「選択した優先項目」の達成度に報酬の大部分を連動させる。これによりCEOがリソース配分の「選択と集中」を実行するためのインセンティブを担保する。

投資家エンゲージメント

機関投資家への事前説明で「廃止ではなく優先順位づけ」という意図を明確化する。

戦略的選択の成功例:アップルのバランス

アップルは、優先順位の明確化において示唆に富む。同社は環境目標で業界をリードし、再生可能エネルギー100%達成、2030年カーボンニュートラル宣言など、野心的な目標を着実に実行している。一方、サプライチェーンの人権問題については「継続的改善」の位置づけで、監査と是正を進めるが、中国からの生産移転のような劇的対応は避けている。

すべてのステークホルダーを同時に最大限満足させているわけではない。しかし、優先順位が明確であるがゆえに戦略的一貫性があり、結果として企業価値は持続的に向上している。「完璧な対応」ではなく「明確な選択」が、長期的な信頼を生むのだ。

日本企業への示唆

これは欧米企業に限った話ではない。資本効率の改善を求められる日本企業こそ、形だけのESGから脱却し、独自のステークホルダー優先順位を語るべき時だ。東証の「資本コストや株価を意識した経営」要請が強まり、PBR(株価純資産倍率)1倍割れの改善が至上命題となっている昨今、経営陣が向き合うべきは、評価機関のスコアを追うことではなく、リソースの再配分である。

悪意なき複雑性を超えて

ディズニーにも花王にもトヨタにも、悪意はなかった。経営陣は誠実に、すべてのステークホルダーに向き合おうとしていた。しかし皮肉にも、その誠実さが戦略的不明瞭さという課題を生んでいる。

サーカスの綱渡り芸人は、いたずらに綱を張り巡らし、そのすべてを渡り続けることはできない。本当の技巧は、「どの綱を選び、どの綱を手放すか」を見極め、その選択を観客に堂々と見せることにある。

ESG時代の企業に求められるのは、「誰とでも対話する寛容さ」だけではない。「誰を優先するかを決める戦略的明確性」である。その明確性を持つトップマネジメントだけが、全方位対応の限界を超え、持続的な企業価値創造という、本当の意味での「ステークホルダー資本主義」を実現できる。

ディズニー、花王、トヨタの物語は、まだ書き換え可能だ。取締役会が戦略主体として機能し、4つの側面での洗練を進める。その一歩は、「すべてを同時に最大化することは不可能である」という現実を認めることから始まる。

そして認めることは、弱さではない。それこそが、戦略的洗練の始まりである。

まず次の取締役会で、「今年は誰を優先するのか」を言語化しよう。それが全方位対応からの脱却への最初の一歩となる。

(次回は2026年2月19日配信予定)