少年時代に垣間見せた“ディール中毒”
チャールズ・アントヌッチは、ニューヨーク市に生まれ育った。9歳の時に父親を亡くした彼は、早くより自立心を持ち、少年時代には新聞配達のアルバイトをしていた。そんなアントヌッチ少年の初めての“ディール(取引)”は新聞配達のルートだった。
彼は自分の既存ルートに隣接するエリアには多くのアパートがあることに目をつけた。そこで、より多くの利益を得ようと考え、そのルートを手に入れる方法を模索した。そして彼は、ライバルである少年が新聞配達を怠るように仕向け、信用を失ったタイミングで、そのルートを買い取ったのだった。
アントヌッチは後年この経験について、「当時は単なるビジネス判断だったが、今振り返れば非情なやり方だった」と述懐し、自らを“ディールジャンキー(取引中毒者)”と呼んだ。幼い頃から利益のためには手段を選ばない性向が形成されていたことがうかがえる。
金融界で磨いた手腕と、裏切られた正義の「内部告発」
1971年、当時20歳で工学を学んでいたアントヌッチは、恋人の父親から突然声をかけられた。
「娘から君が勤勉だと聞いているが、金融業界に入ってみないか」
彼はこの誘いをきっかけにニューヨーク・スタテンアイランドの地方銀行でマネージメント・トレイニー(経営訓練生)として採用される。
その後9年間にわたり同行に勤務、不良債権処理や経営合理化に携わり、持ち前のビジネスセンスで銀行のナンバー2の地位にまで上り詰めた。しかし、結婚を機に離職し、ニューヨーク州北部でカナダ国境にほど近いアディロンダック地方へと移住。そこでアントヌッチは貯蓄と住宅ローンに特化した金融業態の「貯蓄貸付組合(S&L)」の幹部ポストに就任し、さらに3年後には同組合の頭取に昇格した。
そのS&Lで9年間働いた彼は、今度はいったん銀行業を離れ、ニューヨーク周辺で大規模な不動産プロジェクトを手掛ける、54の銀行が出資するデベロッパーに転職。ここでアントヌッチは「ワークアウト・スペシャリスト(不良債権処理の専門家)」としてのスキルを磨いた。特に、1980年代後半のS&Lを中心とした金融危機の影響で多数の不動産開発計画が破綻する中、銀行と建設業者との問題解決に奔走した。
その後、アントヌッチは、ニューヨーク・ブロンクスの小規模銀行の頭取に転じた。そして転職するやいなや、その銀行が腐敗の巣窟であることを知る。内部の不正や管理体制のずさんさを目の当たりにした彼は、内部告発に踏み切った。しかし、返ってきたのは即解雇という冷酷な現実だった。
この体験で、理想だけでは生き残れないことをアントヌッチは痛感することになるが、皮肉にも、後年、彼自身が不正を行う立場へと変貌する伏線となってしまった。