野村 彩:弁護士(和田倉門法律事務所)、公認不正検査士(CFE)
前回の#7は、部下からハラスメント相談を受けたときのヒアリングのコツについてご説明した。次なる問題は、ヒアリングした内容をどう扱うか、である。
例えば、相談者は「◯月◯日に××課長から抱きつかれた」と述べているとする。これに対し、課長は「そんなことはしていない」と言っている。課長が抱きついたのであれば、これは当然に懲戒処分ものである。他方で抱きついていないのであれば、他に懲戒事由がない限り懲戒処分にはできない。
課長は、相談者に抱きついたのだろうか? 抱きついていないのだろうか?
読者のみなさんはおそらく神様ではないので、その時点に遡って神の視点で真実を見ることはできない。裁判になったとしても、裁判所にだって分からない。不正なことをした者にはそれなりの制裁を与えるべきだが、不正をしていない者に制裁を与えてはいけない――。これは人類有史以来のジレンマである。
全知全能ではない人間が、紛争解決のために編み出した工夫とは
人類は、この問題について「立証責任」や「要件事実論」、「事実認定の手法」などの工夫を通じて解決を試みてきた。
立証責任とは、当事者や裁判所がいくら頑張っても事実関係が確定できないときに(こういう場面は割とよくある)、そのような場合でも判決を出すことができるようにするために、「真偽が不明のときは、こっちの当事者が不利になるように判断する」と決めておくルールのことである。
これを今回の課長のケースに当てはめると、例えば会社が相談者に抱きついたことを理由に行為者である課長を懲戒処分とした場合、課長はこれに対して懲戒処分無効の訴えを提起する可能性がある。「オレは(相談者に)抱きついてなんかないぞ。それなのに懲戒処分なんて……。そんな懲戒処分は無効だ!」というわけである。
この場合、「◯月◯日にどこどこで課長が誰々に抱きついた」という懲戒処分の前提となる事実については、会社側が立証責任を負う。したがって、会社が立証に失敗すると、会社に不利益に判断される。つまり、懲戒処分は無効となるであろう。
このように、立証責任の考え方は、「裁判所だろうと誰だろうと神の視点で真実を知ることはできない」という限界がある中で、なんとか公平な結果を導き出すための、人類の叡智(というか妥協策)なのである。ちなみに立証責任の考え方は、かのハンムラビ法典でも出てくる。「いろいろ調べても分からないときは、どうしたらいいんだろうねー?」という問題は、4000年近く前からすでに検討されていたようである*1。
*1 中田一郎『古代オリエント資料集成1原典訳 ハンムラビ「法典」』(リトン、1999年)9頁によると、例えば「§1 もし人が(他の)人を起訴し、彼を殺人(の罪)で告発したが、彼(の罪)を立証しなかったら、彼を起訴した者は殺されなければならない(v26-32)」とある。令和に生きる私たちからするとだいぶ戸惑いを感じる内容ではあるが、ともあれここで「立証」と訳されている言葉は、現代における立証責任の考え方に通じるものがありそうである。
そして、立証責任の前提として重要になるのが「立証すべき事実とは何なのか?」、さらに、「その立証すべき事実をどう認定するか?」という問題である。
法律の世界では前者を「要件事実論」と言ったりする。非常に専門的であるため、ここでは詳細な説明を省略するが、ものすごく簡潔に言うと、「法的に意味のある事実と法的に意味のない事実を区別する」作業である*2。
*2 山浦善樹「企業活動における要件事実論の機能と展望」・伊藤滋夫『民事要件事実講座5』(青林書院、2008年)11頁(以下『伊藤・講義5』)
後者が、本稿のテーマとなる「事実認定の手法」の問題だ。数ある証拠をもとに、どうやって「法的に意味のある事実」を認定するか、ということである。