パトリック・ティエバール(Patrick Thiébart):弁護士(フランス在住)
2025年3月19日付のフランス最高裁判所(「破毀院」)の画期的な判決(判決番号23-19.154)は、職場における紛争解決のあり方に新たな方向性を示した可能性があります。本判決は、通報者の役割を強化する一方で、被告の権利とのバランスについて深刻な懸念を投げかけるものでもあります。
本判決において、最高裁判所は初めて、適正な法的手続きに従って(例えば、執行官によって)収集された匿名の証言が、労働紛争において「独立した証拠」として使用できると明確に示しました。これにより、同裁判所は、当該証言が他の証拠によって裏付けられる必要があるという長年の要件を放棄しました。また、この変更は、欧州人権条約第6条第1項に定める「公正な裁判を受ける権利」に違反しないとも判示しています。
この判決は、通報者に対する保護を強化する可能性が高い一方で、手続的公正の微妙な均衡を揺るがすおそれもあります。以下、本判決の潜在的な影響について、賛否両論の観点から考察します。
1.通報者および証人にとっての勝利
この判決は、違法行為を報告する者(通報者)の保護を優先事項とする、という強いメッセージを発しています。匿名証言を法的に十分なものとして認めることで、同裁判所は、報復の恐れが高い場合でも通報者にとって安全な環境を整える意図を明示しました。発言に伴う個人的リスクを軽減することにより、本判決は、より多くの従業員に違法行為の報告を促す可能性があります。
2.被告の権利に対する打撃
同時に、この判決は重大な懸念も招いています。それは、被告が完全に反論できない匿名の告発に対して、どのように自己防御を図ることができるのか、という点です。
従来、フランスの労働法は、被告が自らに向けられた証拠の内容を把握し、それに反論する権利を保障してきました。ところが、裏付けのない匿名証言を許容するという本判決は、被告の防御権よりも、通報者の保護を優先させる結果となっています。そのため、被告が実質的に反証の手段を持たないまま、濫用的または虚偽の告発に晒されるおそれが生じ、手続的公正の観点から看過できない懸念を引き起こしています。
3.企業による内部通報制度の整備促進
本判決は、企業に対し、通報者の匿名性を担保した内部通報チャネルの整備・強化を促す動機づけとなる可能性があります。裏付けのない匿名証言にも法的効力が認められる可能性が示されたことで、フランス最高裁判所は、こうした証言にこれまでにない証拠価値を与えたといえます。
こうした状況を踏まえ、当職らは、企業が法的紛争を回避するためにも、慎重かつ適切な対応を講じることを強く推奨いたします。匿名証言の法的有効性は、それがどのような手続きを経て収集・検証・保存されたかに大きく依存すると考えられるためです。法的リスクを軽減するには、通報者の匿名性と被告の手続的公正の双方を確保するかたちで、内部通報チャネルを整備・運用することが不可欠です。
4. 説明責任に関する企業文化の変容
この新たな法的先例は、不正行為がより報告されやすくなり、報復への不安が軽減されるような、透明性と説明責任を備えた企業文化の醸成を促す可能性があります。これにより、不正行為の通報が促進され、通報者に対する報復の恐れが軽減されることが期待されます。
しかしながら、適切なセーフガードが設けられないまま匿名通報が常態化すれば、不信感の助長や手続的公正の欠如といった風潮を招くおそれがあります。虚偽や誤った通報に対する責任の所在が不明確なままでは、職場における信頼が損なわれ、適正手続の形骸化につながりかねないという懸念が拭えません。
(了)