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【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#12】昭和50年代前半に再び集中した粉飾決算事件とバブル経済の幕開け

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【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#11】会計国際化の幕開けと、商法改正・企業会計原則改訂「昭和49年の大改革」《昭和40年代後半》

2026年09月09日

八田 進二

商法改正、商法特例法(株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律)の新設、そして企業会計原則の改訂と、山陽特殊製鋼事件に象徴される昭和30~40年代に相次いだ上場会社による粉飾決算事件の再発を防ぐべく、総決算の大改革が成就したかに見えた1974年(昭和49年)。ところが、何の因果か、その同じ年に東証一部(当時)上場の空調機器メーカー、日本熱学工業の粉飾決算が発覚する。

ただ、日本熱学工業事件の詳細に触れる前に、一連の大改革の余波、特に商法特例法の規定をめぐる動きについて指摘しておきたい。

商法特例法「会計監査人による監査」が惹起した諸問題

監査役監査と会計監査人監査の“線引き”と混乱

1970年(昭和45年)当時、わが国公認会計士の人数は4,398人(同年12月末時点、有資格者の総数=以下同)だったが、74年と75年は、従来に比して二次試験の合格者が大量に出たのである。結果、80年(同55年)には6,135人へと増加するのだが、この背景にあったとみられるのが、商法特例法で資本金5億円以上の大会社に新たに義務付けられることになった「会計監査人による監査」である。

というのも、会計監査人は公認会計士または監査法人が務めるものと定められ、その対象には非上場の会社も含まれる。そのため、商法特例法の新設規定に合わせて監査の需要増が見込まれる公認会計士の数を政策誘導的に増員しようとしたと考えるのが妥当であろう。

それにしても、この制度が始まったことでもっとも大きな影響を受けたのが監査役である。監査役は昭和49年商法改正の権限強化によって、従来の会計監査に加えて、いわゆる「業務監査」もその業務範囲に入ったが、他方、大会社には会計監査人による監査が義務化された。そこで、大会社の監査役は「自分たちはいったい何をすればいいのか」という新たな問題に直面することとなる。

商法特例法第14条第2項では、第1号で、監査役は「会計監査人の監査の方法又は結果を相当でないと認めたときは、その旨及び理由並びに自己の監査の方法の概要又は結果」、第2号で、「会計以外の業務の監査の方法の概要」を監査報告書に記載しなければならないと定められている。

第1号は、監査役は会計監査人による監査が妥当か否かを判断せよ、そしてそうでないと判断した場合には、その理由等を監査報告書に記載せよという内容で、ここで留意すべきは、先に監査役制度があって、後で会計監査人制度が出来たということである。

そのため、監査役は、公認会計士を自らの手足として使って会計監査を実施させ、それを見届けてから可否を判断し監査報告書に記載すればよい。少なくとも、昭和49年改正商法の公布と合わせて正式発足した社団法人日本監査役協会(現在は公益社団法人)は、そうした背景の下でスタートしたのである。

ところが、会計監査の専門性から言うと、企業人事の一環で着任する監査役には何の資格要件もなく、必ずしも会計に精通しているとも思えない。そうした監査役が会計監査のプロの仕事の良し悪しを判断できるのか。ただ、機関設計上は監査役のほうが会計監査人よりも上位に位置している……。こうした錯綜した関係は学界でも議論を呼び、監査役による監査を“素人監査”と喝破した会計学者が監査役協会から絶縁されるという珍事に発展することもあった。

とはいえ、結論から言うと、大会社における監査役の主たる任務は業務監査にほかならないのである。より正確性を期して言うならば、前出の商法特例法第14条第2項第2号のとおり、「会計以外の業務の監査」に注力しなければならない。例えば、経営者の誠実性、事業の適法性、不正・不祥事などをめぐる問題である。

しかしその後、権限を強化された監査役が「会計以外の業務の監査」において職責を果たしてきているかというと、甚だ疑問である。むしろ、監査役制度が抱える権限と能力ないし資質の大きな乖離は、当時から半世紀以上を経てもなお、今日的課題として残っていると言わざるを得ない。

商法と証券取引法における「監査報告書」をめぐるギャップ

一方、会計監査人はどのように監査報告を行えばいいのか。

当初は、商法特例法第13条第2項において、監査役の監査報告書に記載すべき事項を規定していた商法第281条の3第2項の中の、監査の方法の概要と会計に関する事項等についての記載を要請していた。

その後、1982年(昭和57年)に、法務省令「大会社の監査報告書に関する規則」(昭和57年省令)によって、会計監査人と監査役の監査報告書との記載内容等が規定されることになった。

この規則の第2条第1項では「監査報告書は、その記載すべき事項ごとに監査の方法及び結果を正確に示すよう明瞭に記載しなければならない」、第2項では「監査の方法の概要は、監査の信頼性を正確に判断することができるように記載しなければならない」と明記されている。

証券取引法監査における監査報告書は、監査人が最終的に「総合意見」として適正か否かを記載する。ところが、当時の商法特例法が会計監査人に求めていた監査報告書は、上記の省令にあるとおり、「事項ごと」に記載する「個別意見」方式だったのである。

それは、もともと監査役監査において求められている監査報告書の記載が、商法第281条の3第2項において列挙されている個別項目についての記載であったことから、会計監査人の監査報告書でも、同様の対応が講じられていたのであり、結果として、総合意見がない、個別意見記載方式だったのである。

監査論の立場から言うと、監査人が企業の財務諸表を全体として信用できるかどうか(適正か否か)を意見表明しなければ、本当の意味での「監査意見」とは呼べない。つまり、監査人が無限定適正意見を表明する場合とは、ステークホルダー(利害関係者)がその財務諸表に全幅の信頼を置いて自らの意思決定を行うことができるというものであり、個別の意見を参考にしなければ、その財務情報の信頼性の程度が判定できないのでは、監査の果たす役割が減じてしまうと考えられるからである。

一方で、法律学者などは「監査人が財務諸表全体を遺漏なく完全に精査できているとは言えない以上、総合意見のような確証のないことを表明できるわけがないし、後日、監査責任が問われた場合には、十分な対抗ができない恐れがある」と考える。実際、各記載項目に対応して個別意見を列記させるという昭和57年省令は、そうした考えを反映したものだったと言える。

その後、2006年に商法の会社関連部分が会社法に移行し、同年に証取法が金融商品取引法に改正されたのに伴い、会社法監査における記載方法も、監査基準の内容に準拠して、ほぼ全面的に金商法監査に置き換わることになるが、それまで監査報告書については商法特例法監査と証取法監査で、このように食い違う状況が続くこととなる。

1970年代末期に相次いだ粉飾決算事件

オイルショックを引き金に倒産した日本熱学工業事件

話を1974年(昭和49年)に粉飾決算が発覚した日本熱学工業に戻す。

粉飾決算を炙り出すことになったオイルショック
(写真は沖縄・うるまの石油備蓄基地)

同社は主力製品のコイン式クーラー「エアロマスター」の一般家庭向けリースが好調で急成長を遂げたが、他社が競合製品を大量生産で投入して空調機器価格が下落。そこに73年(昭和48年)に発生した第1次オイルショックが追い打ちをかける形で業績が急速に悪化する。74年5月に会社更生法を申請して倒産したものの、同年11月に更生法申請は却下されたうえ、社長は特別背任で逮捕された。その結果、75年3月に破産するという末路を迎える。

監査を担当した公認会計士は75年5月に公認会計士法に基づいて業務停止1年の行政処分、翌6月には日本公認会計士協会の懲戒処分も下された。また、株主が監査役、そして監査人を提訴する事態にも発展。訴額は600万円に満たないものだったが、これは監査人が損害賠償請求された初めての事例だった。

社長らが逮捕された東京時計製造事件

さらに同じ1974年の11月には東証二部(当時、以下同)上場の大手時計メーカー、東京時計製造が会社更生法を申請する(75年に適用)。その倒産過程で粉飾経理を行っていたことが表面化し、社長ら役員が逮捕される事態へと発展する。そして、監査を担当した公認会計士は75年10月、業務停止1年の行政処分を受けた。

興人の倒産と「2年後に粉飾決算発覚」の経緯

翌年の1975年(昭和50年)8月には東証一部上場の老舗化学メーカー、興人が会社更生法を申請し倒産する。原因は住宅分譲など事業の多角化によるものとされ、負債額は約1500億円とその当時で戦後最大の大型倒産となった。ただ、更生法申請2カ月後には適用がスピード決定し、同社の再建は順調に進んでいくことになる。

興人の倒産劇では当初、粉飾の疑惑が持ち上がることがほとんどなかった。しかし、管財人による調査の結果、倒産から2年後の77年(同52年)に粉飾決算が発覚する。管財人は多角化を進めた元社長に損害を一部弁済させたものの、刑事・民事ともに事件化することはなかった。こうした流れから、監査人に対する処分もさらに2年後の79年になってからようやく実施されたが、公認会計士法に基づく戒告にとどまるものだった。

銀行管理下で粉飾決算を発表した不二サッシ

そんな中、東証一部上場でアルミサッシ製造の不二サッシ工業と、その販売会社である不二サッシ販売における粉飾経理が1978年(昭和53年)5月に発覚する。過去5年分だけで両社合計430億円に上る粉飾額は当時最大規模のものだったが、その経緯は倒産した上記3社とは異なるものだった。

というのも、新商品への多額の開発投資や、本業以外での多角化によって経営が行き詰まった不二サッシグループは、銀行団の管理下に置かれ、社長も銀行から派遣される状況に陥っていた。その過程で巨額かつ長期にわたる粉飾が明らかとなり、自ら発表するに至ったというのが発覚の経緯である。

その結果、上場は廃止に。そして、粉飾を主導した創業者(元社長)らは逮捕され、有罪判決が下った。一方、監査人を務めた公認会計士に対しては、粉飾経理の存在を知りながら黙認していたとして、粉飾発覚からわずか半年余り後の78年12月に登録抹消というもっとも重い処分が科された。そのうえ、刑事上の処分も下されている。

その後、本業に回帰した不二サッシ工業は、不二サッシ販売等と合併し新生「不二サッシ」として再出発を遂げた。92年(平成4年)には東証二部に改めて上場し、現在も事業を継続している(現在は東証スタンダード上場)。

バブル経済と「会計士業界無風時代」

このように昭和50年前後に大型粉飾事件が立て続けに事件化したのだが、ここで注目すべきは、こういった粉飾経理の背後には経営者本人による不正が介在していたということである。そもそも、決算書の最終責任が経営者にある以上、彼らが知らぬ間に巨額の不正など起こるわけがない。事実、元社長たちが粉飾を主導したとして、逮捕されるなど断罪された。

当然ながら、これら企業の監査人を務めた公認会計士や監査法人にも処分が下されたわけだが、1950年(昭和25年)の「監査基準」(二 監査の必要性)では下記のように謳われていたことを思い出しておきたい。

「監査は過去においては、不正事実の有無を確かめ、帳簿記録の正否を検査することをもつて主たる目的としたものであつたが、企業の内部統制組織即ち内部牽制組織及び内部監査組織が整備改善されるについて、この種の目的は次第に重要性を失いつつある。」

それから四半世紀を経て、その間に粉飾経理が相次いでもなお、公認会計士業界においては「不正の発見は監査の第一の目的ではない」という考え方が改められることはなく、以降もこうした風潮が根強く残る。
 
ただし、昭和30年代後半以降、断続的に発生した大型粉飾問題は昭和55年頃を境に21世紀の初めまでほとんど発生しなくなる。なぜなら、狂乱のバブル経済が昭和60年代の日本を覆ったからにほかならない。空前の好景気に日本が沸く中で多くの企業は過去最高益を叩き出し、企業側が決算書を取り繕う動機が後退し、会計監査上の問題は顕在化しなくなったのである。

もっとも、バブル崩壊後に監査の世界、ひいては日本経済全体を大きく揺るがす混迷の時代を迎えることになるが、それは10年以上のちの話である。そのような意味で、公認会計士業界にとっては“無風の時代”がしばらく続くことになるが、その間にも別種の新たな問題が指摘されることとなる。

(#13につづく)

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