【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#10】進む会計制度の精緻化と連結決算、証券取引法の改正《昭和40年代》

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【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#9】昭和20~30年代の監査役、内部監査、内部統制をめぐる議論

2026年08月10日

八田 進二

企業会計原則と関係諸法令との調整に関する連続意見書

これまで触れた通り(#8参照)、1962年(昭和37年)の商法改正では、企業会計原則の考え方を取り入れ、繰延資産や引当金といった一部の勘定科目についてではあるが、会計に関する法規制が入ることとなった。とはいえ、全面的な統合からは程遠く、議論は74年(同49年)の商法改正まで先延ばしにされた。

もともと企業会計原則は、事実上、証券取引法に基づく監査を導入するに際して上場会社向けの会計基準という形で策定されたものである。非上場会社が大半を占めるわが国の場合、すべての企業に適用できる法律というと、それは商法(現会社法)となる。ところが実際に、制度および実務面での会計に影響を与えていたのは法人税法であって、基本的に税法の中で規定された規則等に則って処理されてきたという歴史がある。

一方、昭和30年代に入って日本にも経済実態を忠実に反映する会計が必要になり、また、企業会計原則が浸透してきたこともあって、同原則を柱として関係諸法令等が足並みをそろえなければならないという流れが出てくる。そこで大蔵省(当時)の企業会計審議会が1960年(昭和35年)6月と62年(同37年)8月にそれぞれ「企業会計原則と関係諸法令との調整に関する連続意見書」なるものを公表した。

この意見書は基準やルールではなく、あくまでも考え方を示したものである。結構なボリュームから成り、結果的に全部で5本の意見書が出されている。60年6月に出された意見書の第1は「財務諸表の体系について」、第2が「財務諸表の様式について」。これら2つは形式的なもので、第3「有形固定資産の減価償却について」、そして同年8月に公表された第4「棚卸資産の評価について」と、第5「繰延資産について」が、会計実務のみならず会計教育においても、特に重要視された。

というのも、これらの意見書は会計の規則集や法規集にも掲載され、昭和30~40年代当時の日本ではまだ会計の議論を厳密に扱ったテキストや解説書が乏しかったこともあり、会計実務の世界だけでなく、日本商工会議所の簿記検定試験をはじめ、公認会計士試験や税理士試験の受験勉強に際しても、相当の影響力を持つこととなった。実際、私が会計の勉強を始めた昭和40年代中盤以降でも、連続意見書の第3~第5は、それこそ穴の開くほど読み込んだ記憶がある。

意見書第3「有形固定資産の減価償却について」

意見書第3の「有形固定資産の減価償却について」では、会計上重要な概念となる減価償却をめぐって非常に詳細な議論がなされている。物理的に形があり長期にわたって使用される有形固定資産について、それを入手したときに即時に費用化するのではなく、それが利用される年限にしたがって順次費用化していくという、まさに会計における適正な期間損益計算の前提となる考え方が示されている。

費用・コストというものは、獲得する収益に見合ったものでなければいけない。会計の世界には「費用収益対応の原則」という考え方があるが、期間損益計算を適正化するという観点から、現金・預金の入金・出金に基づいて計算するのではなく、実際に獲得した収益に対して犠牲となった分を費用とするというものである。

この考えは現金主義から発生主義への移行と通じる。入金イコール収益、出金イコール費用というのが現金主義だが、確かに零細企業や個人商店においては、これである程度の利益計算ができる。しかし、企業規模が大きくなり、信用取引をベースに継続的に事業活動を行う会社は現金の直接的な入出金(の有無)はそれほど関係ない。重要なのは実際に費用として認識できるか、つまり発生したかどうか、そこに着眼するのが発生主義である。

さらに、収益に関しては実現主義という考え方の下、それがその日の売上・収益に計上できるかということを会計的には議論しなければならない。収益認識と費用認識に見合った形で、固定資産の減価償却という考え方も定着するようになった。

意見書第4「棚卸資産の評価について」

意見書第4は「棚卸資産の評価について」。いわゆる物品売買業の場合には、商品と呼ばれる棚卸資産がある。それをどのように売上原価を計算するのか、そして、期末に売れ残った分をどのように次期繰越商品として計算処理していくのかが問題となる。

その場合、単純に単価と数量をかければ算出できるわけではなく、期末において、数量が合わない、目減りしている場合もあり得る。あるいは、品質が損傷、劣化しているといった場合もある。そういう場合には期末の評価という形で繰越高を計算しなければいけないが、その評価の考え方が示されている。

特に、この企業会計原則を前提にしている企業は物品売買業を中心とした企業が多かったため、この棚卸資産の評価の問題はとても重要な意味を持っていた。

意見書第5「繰延資産について」

意見書第5が「繰延資産について」。#8でも触れた通り、繰延資産は1962年(昭和37年)の商法改正において限定列挙という形で、法律上一部認められることとなった。それを会計理論的に説明しているのがこの意見書である。

第3~第5の3つの連続意見書が、わが国における会計に関する考え方、そして実務を大きく底上げする役割を果たしてきた。その後、会計教育の現場においては、さまざまな研究者・教育者が基礎的な会計理論に関する解説書を出すようになって、意見書はその役割を次第に終えていくが、少なくとも昭和の時代はこの連続意見書はそれなりに意味を持っていたのである。

「連結財務諸表に関する意見書」の公表

ところで、昭和40年代に入ると、企業経営の実態を個社のレベルではなく、支配・従属関係にある会社も合体させて把握する観点から、連結財務諸表という考え方が芽生え始めてきた。1967年(昭和42年)の「連結財務諸表に関する意見書」は、そうした時代に対応するための意見書である。

わが国では20世紀まで、企業の経営や事業活動、そして企業会計はほとんどの場合、法的に独立した事業体を軸にしたものだった。ただ、その1つの会社を中核にして、資本的な関係があったり、取引上の重要な関わりがあったり、あるいは人的な関わりがあったりするケースが往々にして出てくる。

そうなると、中核になる企業、すなわち親会社と関係性のある会社群を合体させないと、企業集団の全体像は分からない。そこで、支配・従属関係にある会社の財務諸表を連結させるという考え方が取り入れられた。とはいえ、当時想定された支配・従属関係とは、あくまでも資本連結をベースにしたもので、人的な影響力についてはそこまで考慮されていなかった。

ちなみに、戦後日本の企業会計に多大な影響を及ぼした米国では、わが国と会社組織の生い立ちがかなり異なっており、同国ではすでに19世紀後半から連結という考え方が導入されている。分かりやすいのが建設業で、米国の場合、日本のような企画から設計、建築、施行、販売までを一貫して手掛けるゼネコン(総合建設業者)といった業態はなく、専門会社がおのおの機能別に役割を分担する。

そうすると、部品・材料だけを提供する会社であれば、最終的にその納品物が何に用いられるのか分からない。最終的に何になるのかを見届けた形で決算書を作らないと、その企業の実態が掴めないということから、米国では早い時期から連結決算が基本的になっていたという歴史がある。

子会社等を使った粉飾決算の手口

一方、わが国では長く単体決算を採用してきているのであるが、連結決算導入にはもうひとつ別の側面があったとみられる。日本では影響力を持つ親会社が、子会社や孫会社など支配下にある会社を使って決算操作をしているのではないかということが疑われるようになっていたのである。

次回以降で詳しく触れるが、昭和50年代に顕在化するような会計不正の多くは、そういった企業集団という力を使って親会社の決算書を粉飾するケースが相次いだ。それなら、企業集団を全部まとめて扱ってしまえば、親会社と子会社との間の売り買いは相殺されてゼロになる。つまり、わが国では、粉飾防止の観点から連結財務諸表の重要性が指摘されるようになったと言われている。

このように1967年(昭和42年)に意見書が出された連結財務諸表であるが、それは結果的に国際的な標準にも合致しており、77年(同52年)からは証券取引法に基づいた連結財務諸表制度および連結財務諸表監査制度が導入されるようになったのである。

そして、そのための基準作りとして、連結財務諸表原則や規則が作られるようになり、実際に連結ベースの企業の監査の必要性から監査実施準則、監査報告準則も一部見直されたという流れがある。さらに連結関係が進展したのが20世紀末で、有価証券に記載する財務諸表も連結財務諸表が基本になってくるが、それはまだまだ先の話である。

この時期、米アポロ計画による有人月面着陸が相次いだ
(アポロ11号の初着陸は1969年7月)

企業会計原則修正案の公表と昭和46年改正証券取引法

昭和40年代に入って、一方で会計の原則と関係諸法令との調整をしつつ、他方でその大元になる企業会計原則を見直すべきだという動きが出てくる。

そもそも企業会計原則は1949年(昭和24年)に策定されたものであって、時代とともに陳腐化し、情報量も欠如していた。もうひとつ大きく影響したのは、商法において会計に対して新たな取り組みをすべきという声が高まってきたことである。そうした要望を受けて、商法と企業会計原則に大きな隔たりがあるならば、企業会計原則のほうでも歩み寄ろうではないかと、69年(同44年)末に修正案が公表されることとなったのである。

企業会計原則の修正案を受けて会計制度が漸進的に見直される一方、57年(同32年)に始まった監査制度も十数年が経ち、これまで見てきたとおり、公認会計士や監査法人が処分される事例も相次いできた。当然、処分に合わせて責任問題が生じてくる。

財務諸表の虚偽記載に対する監査人への「挙証責任の転換」

そこで71年(同46年)7月施行の改正証券取引法では、IPO(新規株式公開)などに提出する有価証券届出書の財務諸表の虚偽記載等に対する損害賠償の責任の範囲を公認会計士または監査法人や元引受証券会社まで拡大した。また、有価証券報告書についても民事責任規定を新設した。

なかでも注目すべきは、届出書、報告書の記載について何か責任が問われた場合、監査人側に「挙証責任の転換」が図られたことである。つまり、訴えられた側である公認会計士、監査法人側が職務上、故意または過失がなかったことを立証しない限り、損害賠償責任を免れないことになった。これは監査人側から見ると、非常に大きな負担と言える。そのため、経済負担を軽減す目的で、公認会計士職業賠償責任保険制度が創設された。

しかしながら、証券取引法改正で公認会計士に対する民事上の賠償責任が強化されたとはいえ、実態は有名無実と言えた。というのも、昭和を通じて監査人が株主や投資家などから提訴される事例はまったくと言っていいほどなかったからである。

なお、平成に入って、外資系の日本法人の非上場会社の任意監査をめぐり、担当監査法人が同社社員の不正行為を見抜けなかったとして提訴される事件が発生する。一審でこそ過失相殺で監査法人の一部責任が認定されたものの、会計士業界挙げての応援もあって、二審では監査法人側が“無罪放免”になるという結末をたどった(日本コッパース事件)。

いずれにせよ、昭和の時代においては、今で言うステークホルダーが監査人の責任を追及する動きは無きに等しいものだったのである。

(#11につづく)

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