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1951年、5年にわたる段階的監査がスタート
わが国の監査制度の導入については、1950年(昭和25年)までに法律を制定し、企業会計原則、監査基準や監査実施準則などを作ったものの、本格的に財務書類の監査を稼働させるにははまだ時間がかかる。公認会計士の誕生と並ぶ最大の問題は、監査を受ける企業の側に準備ができてないということだった。
そこで1951年(昭和26年)から「制度監査」の名の下、5段階にわたって全面的な財務書類の監査が実施可能となるよう、段階的に公認会計士による監査が開始される。なお、当時の日本企業の会計期間は半年のため、監査についてもそれを反映する形で、半年ごとの段階的な監査が実施された。
まず、1951年(昭和26年)7月から始まった「初年度監査」では会計制度の整備および運用の状況を検査するにとどめ、正規の財務諸表監査には及ばないものとする、とのことから、監査受け入れ体制の整備・充実に向けた予備的な監査が実施された。
続く翌1952年(昭和27年)1月からの「次年度監査」では、財務諸表を提出する会社の会計制度の運用状況につき公認会計士の意見を表明するために、引き続き会計制度の整備・運用状況の監査として、内部統制組織の運用状況が監査された。
さらに「第3次監査」(同年7月開始)では、内部監査制度の整備充実が目指された。なお、この段階では財務諸表の監査にまでは至っておらず、基礎となる会計制度自体の構築の確認が主たる業務である。
そして、1953年(昭和28年)1月から2年間続く「第4次監査」では、会計制度の整備・運用状況をみる「基礎監査」に加え、貸借対照表の重要項目の残高監査としての「正常監査」が実施された。ここで初めて実際の財務諸表に関わる監査に入っていく。とはいえ、このときは貸借対照表の重要5項目(現金、預金、手形債権、有価証券、社債および長期借入金)だけの残高監査に限られた。
最後に、1955年(昭和30年)1月から始まった「第5次監査」で、貸借対照表の全項目の残高監査が行われ、正規の監査に移行できる体制が整備されているかどうかが監査された。
1956年(昭和31年)には、これまでの5次にわたる段階的監査を踏まえて、「監査基準」の全面的な見直しが実施され、12月に大蔵省(金融庁の前身)の企業会計審議会により「改訂監査基準」、「改訂監査実施準則」に加えて、新たに「監査報告準則」が公表された。これにより晴れて「正規の監査」として全面的な財務諸表の監査が実施されることとなり、監査の結論書である監査報告書の作成に関する基準の体系が構築されたのである。
その結果、1957年(昭和32年)1月から始まる監査から「正規の監査」と呼ばれることになるが、一連の基準の整備を経て、同年の4月から本格的な財務諸表の監査が開始さたのである。
日本の監査制度開始は「1956年」が正しいのか
興味深いことに、現在、監査制度を所管する金融庁は、「監査基準」制定の歴史を踏まえて、日本における正式な財務書類の監査制度のスタートを1956年(昭和31年)とする立場をとっている。しかし実際には前述のとおり、その6年前の50年(昭和25年)に事実上GHQ=アメリカが主導する形で、経済安定本部内の企業会計基準審議会が「監査基準」「監査実施準則」を作成している。この金融庁の立場には、前身である旧大蔵省の管轄外で行われたものという認識、あるいは、それは正規の財務諸表監査でないという理解があるのだろうか。
もっとも、金融庁のそういった認識に理由がないわけではない。
言うまでもなく、監査は、監査を受ける側の企業と、企業から監査を依頼される側の公認会計士の両者で成り立つ。とはいえ、公認会計士による監査は、当時としては日本で初めての取り組みである。そこで、果たして公認会計士にどれくらいの監査報酬を支払うべきか――という問題が立ちはだかる。
このとき、リーダーシップを発揮して間を取り持ったのが大蔵省にほかならない。結果、正規の監査が開始された3カ月あまりのちの1957年(昭和32年)4月、経済団体連合会(経団連)と日本公認会計士協会(53年(昭和28年)に任意団体から社団法人に改組)の間で監査報酬に関して、新たに「証券取引法監査の報酬規定」が定められる。両団体の間で、証券取引法監査における監査契約書、同契約約款および報酬規定の協定が結ばれたのだ。
このように大蔵省が公認会計士による監査制度の導入を推進し、以降も同省が強力に主導する体制が続くことになる。それは終戦直後の経緯からも分かるように、現代に直接的に続く日本の監査制度は占領下で制定された証券取引法、経済安定本部の下で作られた監査基準などの延長線上にあり、その歴然たる事実は無視できない。
公認会計士の視点から言えば、日本においては、会計プロフェッション自らが経済社会の必要に応じる形で監査制度を生み出してきていないのである。あるいは、監査という社会的役割を主体的に自分たちの独占業務にしていったわけでもない。
むしろ、1950年(昭和25年)の改正証券取引法で盛り込まれた第193条の2において、上場会社はその財務書類について〈公認会計士の監査証明を受けなければならない〉と公認会計士監査が法定化されたとおり、公認会計士はまさに上場会社の監査をするために産み落とされた職業資格だったのである。
この事実こそが、現在まで続く日本の監査制度、そして公認会計士制度を大きく特徴づけていると言える。

日米の差はわずか「15年」
それでは、そもそも日本が戦後に範としたアメリカの会計・監査制度、そして証券市場規制はどのようなものなのか。
アメリカにおける会計・監査の歴史は、会計の専門職業人が自分たちの仕事を切り拓くために、自らの手で制度や基準を作ってきた歴史と言える。その先駆けとなったのが、19世紀中葉から20世紀初頭にかけてアメリカに移ってきたイギリスの会計士たちだった。彼らがイギリスの会計・監査制度を移植し、そして職業団体を1887年(明治20年)に設立した。それが現在に至るアメリカ公認会計士協会(AICPA)である。
私は1987年(昭和62年)9月にニューヨークで開催されたアメリカ公認会計士協会創立100周年記念年次総会に出席したが、これまでの1世紀の間にアメリカでは会計士自らが会計のルールを作りながら監査を行ってきたのである。
ただ、アメリカにおいて会計士による監査が大きく変わったのは、会計士協会が設立されてから約半世紀後の1933(昭和8年)である。
アメリカでは同年、証券法が制定され、有価証券の届け出制度が設けられた。そして翌34年(昭和9年)には、有価証券の流通を規制する証券取引所法が制定される。この2つの法律を指して「証券二法」と呼ばれている。
時代背景からも分かるように、そもそも証券二法の制定は1929年(昭和4年)のウォール街の株価大暴落とそれに続く世界恐慌が契機となっている。それまでの狂乱的な株式ブームの裏で数多くの恣意的な会計処理等が行われていたことが明らかにされたのだ。そのことで、とりわけ、善良な個人投資家が巨額の損失を被ることとなった。
なお、1934年(昭和9年)には証券取引の監督・監視当局として証券取引委員会(SEC)が設立される。委員会は大統領が任命する委員長を含む5人の委員で構成され、今日においても証券市場の番人として強大な権限を有する。ちなみに、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトによって初代委員長に指名されたのが、その政治資金を提供し、自らも数多の証券不正に手を染めたとされる相場師ジョセフ・P・ケネディ。のちに大統領となるジョン・F・ケネディの父親である。
当然ながら、不特定多数の投資家が安心して証券投資を行うには、株式を発行する上場会社が噓偽りのない財務情報を開示する必要がある。そして、開示される内容は独立した専門の立場からの監査を経ていなければならない。では、それを誰に担わせるか。立法府での議論の末、アメリカにはすでに50年間、会計基準と監査基準を策定して企業監査を実施している会計士がいるではないかということになり、会計士協会に上場会社を監査する権限が与えられた。
ただし、会計基準を設定する権限はあくまでもSECが持っている。したがって、会計士協会はその権限をSECから委譲されているに過ぎなかったのである。そのため、もし会計士業界において、監査の失敗など過ちを犯すようなことがあれば、会計基準の設定や監査を実施する権限は、いつでもSECに取り上げられる――そのような建て付けになっている。つまり、アメリカの場合、公認会計士が監査を未来永劫担えるという保証は必ずしもないのである。
このアメリカの証券二法を合体させて作られたのが、戦後制定された日本の証券取引法だった。このため、粗々、前半の条文が有価証券の発行市場規制関連法規、後半が流通市場規制関連法規という構成で、流通市場規制の中のひとつに、公認会計士監査を受ける義務が入っているという形になっている。しかし、訳語としては同じ「証券取引委員会」が設置されたものの、最終的にアメリカのSECのような強大な権限を持った監視・監督組織が作られることはなかった。
今日に至っても「アメリカと比べて日本の監査制度は遅れている」と言われることがある。ただ、証券市場規制の歴史を見る限り、日米の差は、1933年(昭和8年)と1948年(昭和23年)のスタートということでわずか15年程度の差でしかない。ところが、日本の公認会計士および監査業界は、この15年の遅れについて、少なくとも20世紀の間、まったく取り戻すことが出来なかった――。それはなぜなのか、次回以降で検証していこう。
(#3につづく)
