第2次大戦後80年を超え、また、21世紀も、はや4半世紀を超えた現在、世界の中での日本は、一体どこに向かっていくのであろうか。
思えば、バブル経済を引き起こした昭和の時代の高度経済成長期には、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として、日本的経営がもてはやされていたのである。そうした経済活動の発展を担うわが国の資本市場は、戦後、アメリカの制度に倣って構築され、常にその後ろを追いかけてきているのである。とりわけ、日本の資本市場の番人として、また、企業会計制度の推進役としての会計プロフェッション、中でもその主軸たる公認会計士と監査法人はこれから、どこに進もうとしているのか。
監査をめぐる環境変化は国内外ともに著しく、会計プロフェッションが担うべき領域はサステナビリティをはじめとする非財務情報に対する保証にまで広がり、その役割期待はより大きく、そしてより重くなりつつある。
ところが、こうした役割の拡大に応じて会計プロフェッションそのものの存在感が増しているかというと、残念ながら、必ずしもそうとは言い切れない。いや、むしろ、会計専門職業人としての主体性といったものは以前にも増して見えにくくなっているような気がしてならない。
私自身、半世紀を超えての間、会計プロフェッションの役割と責任、さらには将来展望等について、理論と実務の両面から、様々な警鐘を鳴らし続けてきたのである。また、時に金融庁の企業会計政府審議会の委員等の立場を通じて、日本の会計および監査の制度設計や基準の策定等に関与する機会も得ることとなった。
そして今、長年にわたって務めてきた教育現場を離れるに当たって、改めて日本の会計プロフェッションの将来について考える時間を持つこととした。そこで、未来に思いを巡らすためにも、まずは、会計プロフェッションを取り巻く過去の足跡を忠実に辿ることから始めてみたい。
終戦から始まった証券市場、会計制度の整備
明治維新以降、政治、経済、教育、文化のあらゆる面で近代化(欧米化)を進めてきた日本。ところが、こと現代に直接つながる証券市場の整備、上場会社に係る制度構築については、すべてがアメリカに倣って戦後に始まったのである。1945年(昭和20年)の終戦以後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)、即ちアメリカの占領下にあって、財閥解体など一連の経済民主化の流れと並行して、アメリカ型の証券市場を日本に移植するという形ですべてがスタートした。
1947年(昭和22年)には、証券取引所の再開に向けて証券取引法(現金融商品取引法)が制定された。だたし、このときは証券取引委員会(48年(昭和23年)設置、52年(昭和27年)廃止)に関する部分だけで、翌48年(昭和23年)に証券取引法が全面改正されたのを契機に、次第に会計や監査という領域にも新たな制度が構築されるようになる。
とはいえ、1948年(昭和23年)改正法の時点では、本当の意味での財務情報の信頼性を保証する監査を実施するという流れはまだ始まっていない。というのも、やっと同年に、公認会計士法が制定されたのであり、市場の枠組みを規制する目的のための法律が作られただけであって、企業の情報開示、いわゆるディスクロージャー制度に関しては手つかずのままだった。
ディスクロージャー制度を作り上げていくためには、企業の決算書の作成指針となる会計の基準が必要となる。一方、敗戦という未曾有の経済危機に対応する司令塔としてGHQの肝いりで1946年(昭和21年)に発足したのが、企画・統制官庁の経済安定本部(のちの経済企画庁の前身)だった。48年(昭和23年)、この経済安定本部内に企業会計制度対策調査会(現在の企業会計審議会の源流)が設置され、翌49年(昭和24年)に「企業会計原則の設定について」という中間報告で「企業会計原則」および「財務諸表準則」が公表された。以降、この「企業会計原則」が日本でいう会計基準の憲法のような位置づけになる。
さらに1950年(昭和25年)、調査会の後身である経済安定本部企業会計基準審議会が中間報告「財務諸表の監査について」をまとめ、「監査基準」と「監査実施準則」を公表した。監査基準は、監査とは何かということを概括的に示した全般基準であり、一方の監査実施準則は、どのように監査を実施するのかという手続きを規定したもの。ただし、この段階では、対外公表物としての監査報告書の作成については想定されていなかったことから、いわゆる「監査報告準則」なるものについては制定されていなかった。なお、当時の監査基準においても、その内容は「監査一般基準」、「監査実施基準」、「監査報告基準」という3つの基準から構成されていた。
ただ、ここで示された監査基準は、実際に監査制度が運用されていない中で作られたものであり、およそ体系的とは言えない代物だった。体系的な監査の基準の始まりは、1952年(昭和27年)の経済安定本部の廃止に伴い、その機能が引き継がれた大蔵省(当時、金融庁の前身)の企業会計審議会が56年(昭和31年)12月、新たに「監査基準」「監査実施準則」「監査報告準則」を公表するまで待たなければならなかった。
一方、改正証券取引法と同じ1948年(昭和23年)に公認会計士法も施行される。翌49年(昭和24年)5月に第1回の公認会計士試験が実施され、後述する「計理士」の称号をすでに有している人等は特別公認会計士試験を受験し、それ以外の大学生等は、公認会計士試験第1次試験が免除されたため、皆、第2次試験を受験することとなった。
ちなみに、第1回の特別公認会計士試験の合格者57人は、同年度内に公認会計士として生まれ変わるが、第2次試験合格者は、その後、実務補習と業務補助を終えるとともに第3次試験に合格することが求められたのである。したがって、この段階では、我が国の監査制度は、形だけが出来たばかりで、事実上、企業の監査を担当し得る人材はいなかったのである。

「計理士と会計士」戦前と戦後の連続と断絶
もっとも、戦前の日本に公認会計士に類する専門職能がいなかったわけではない。1927年(昭和2年)には計理士法が制定され、計理士制度が作られていた。この計理士の業務として監査類似業務とも称される「検査、調査、証明」等の業務が規定されていたが、公認会計士に与えられている監査独占業務を担うものではなく、また、制度を支える厳格な基準もなかった。
なお、計理士資格については、試験合格だけでなく、大学や旧制専門学校の経済学系や商学系の卒業・修了者で一定の業務従事者であれば、申請さえすれば取得できたのである。
このように戦前にも企業会計の知識を持った資格者が存在し、監査類似業務に携わっていたものの、私たちが今日使うような会計の監査とは意味合いが異なる。そこで1948年(昭和23年)の公認会計士法の施行により、計理士制度は廃止され、新たな登録者はなくなったが、計理士資格については、その後、67年(昭和42年)まで存続した。
したがって、本格的な企業監査を担う資格としては、あくまでもアメリカに倣って作られ公認会計士という制度に一本化されたのである。
公認会計士資格取得の場合、1次、2次、3次試験に合格して、最終的に公認会計士になるが、最大の難関試験である2次試験に合格してからは、1年間の実務補習の修了と、2年間の業務補助ないし実務従事が課せられるため、最短で3年が経過しないと3次試験は受けられなかった。
これでは来るべき企業監査に対応する人員を満たすことはできない。そのため、迅速に公認会計士の有資格者を輩出すべく、大学の教員や、それまでの計理士を対象にした特別公認会計士試験が1949年(昭和24年)から実施された(54年(昭和29年)廃止)。
さらに1942年(昭和17年)制定の税務代理士制度を源泉として、51年(昭和26年)には税理士法の制定がなされ、新たに税理士試験も開始となった。なお、当時、計理士名簿に登記して計理士業務を行っている者に対しては、税理士資格取得が認められた。そして、新たに税理士であれば、特別公認会計士試験を受けられるようにもなる(57年(昭和32年)廃止)。
言うならば、このように特別の試験対応を講ずることで公認会計士を促成栽培したのである。なお、上に述べたように、公認会計士法の施行により計理士法が廃止されたが、計理士の資格制度についても1967年(昭和42年)に廃止されることとなった。そのため、64年(昭和39年)から67年(昭和42年)まで計理士を対象とした公認会計士特例試験が実施された。
(#2につづく)
