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ノーベル賞・硤合憲三氏の受賞コメントから考える「内部統制システム」の真意【遠藤元一弁護士の「ガバナンス&ロー」#48】

さる2026年10月、東京理科大学の硤合憲三(そあい・けんそう)名誉教授のノーベル化学賞受賞が発表された。授賞理由は「不斉有機合成における非線形効果および自己触媒作用の発見」である。

記者会見で硤合氏は、研究で大切にしていることは「むやみやたらではなく、理論的に考え、経験に基づいて計画を立てること」だと語った。研究の困難については「少し暗い道を頭にヘッドライトを付けてたどっていくような気分だった」といい、受賞の喜びのただ中にあってなお「完全に解明できたわけではなく、まだまだ面白いことがあるはず」と続けた。

今回着目したいのは、受賞の栄誉そのものではない。硤合氏の言葉から立ち上る「確かめる」という営みの質である。理論と経験に基づいて計画を立て、限られた光の中を進み、完全な解明に到達できなくても歩み続ける。これは、企業の内部統制やリスク管理に携わる法務担当者、監査役、社外取締役が日々向き合う営みと、驚くほど正確に重なる。

ノーベル賞受賞という華やかな出来事から、コーポレートガバナンスという地味な主題を考えることに不自然さを感じる読者もいるかもしれない。だが、確かめることの質という一点に限れば、研究者と企業統治の担い手は、同じ問題に直面しているのである。硤合氏のノーベル賞受賞を入口に、ガバナンスにおける「発見」と「是正」の間に横たわる断絶を考えてみたい。

指摘されても止まらなかった「裸の王様」の行列

ところで、アンデルセンの童話『裸の王様』は、「王様の服が見えない」と叫んだ子どもの一言で語られることが多い。しかし、原作の結末をよくよく思い出していただきたい。子どもに指摘され、観衆が口々にその声を繰り返してもなお、王様は「行列を続けなければ」と考え、侍従たちはありもしない裳裾(もすそ)をいっそう誇らしげに捧げ持って歩き続ける。物語は、王が裸だという真実が明るみに出て一見落着、という形で幕を閉じるのではない。指摘されたはずの“不正”が、指摘の後もそのまま続く様子を、アンデルセンは筆を置いている。

公益通報者保護法が求める「反応証明」

この結末こそ、内部通報制度を論じる際に最も重い示唆を与えるのではないか。多くの企業は「通報しやすい組織づくり」に努める。窓口を設け、就業規則に定め、匿名性を担保し、通報者を不利益な取扱いから守る。その努力は当然だ。だが『裸の王様』が示すのは、真実が発見され、しかも公衆の面前で告発されたにもかかわらず、なお行列が止まらなかった、という事実である。

発見→意思決定者への届出→行動変更――この3段階は、制度設計の図面の上では一本の線のように描かれるが、現実にはそれぞれが独立した関門であり、しかも最後の関門こそが最もハードルが高い。「通報されやすいこと」と「通報に応じて組織が動くこと」は、別の制度能力なのだ。

通報を奨励する仕組みだけを整えた組織は、発見を増やしても応答を増やせない。その結果、受け手の窓口は疲弊し、通報する側には「言っても変わらない」という諦めが残る。発見の道具立てと応答の権限設計とは、車の両輪として整備されなければならない。この視点は、法制度の変遷と重ね合わせることもできる。公益通報者保護法は、令和2(2020)年改正(22年6月施行)により、常時使用する労働者の数が300人を超える事業者に内部公益通報対応体制の整備を義務づけた。

同法に基づく指針(令和3年=21年内閣府告示第118号)は、調査の結果、法令違反行為が明らかになれば速やかに是正に必要な措置をとること、是正措置をとったときはその旨を通報者に通知することを求めている。

さらに今年26年3月の指針・指針の解説の改正では、窓口を経由しない通報であっても調査や是正が必要なものには窓口経由と同様の対応をとるべきことや、経営幹部が関係する事案を監査役や社外取締役などへの独立した経路で扱うべきことが、一層明確にされた。

つまり公益通報者保護法は、窓口の設置という存在証明ではなく、通報が是正とフィードバックに接続されるという反応証明までを射程に置いている。王様の行列が何事もなかったように歩みを止めない限り、窓口がいくら整っていても、制度は実効的に働いていない。

金商法「内部統制報告制度」でも

財務報告の領域に目を転じれば、金融商品取引法に基づく内部統制報告制度が、経営者による内部統制の評価と、公認会計士等による監査証明を求めている趣旨も、統制の存在を確認させることではなく、その有効性を確かめることにあると解される。存在証明から反応証明への重心の移動は、すでに法制度の内部に組み込まれているのである。

制度を「試す」仕組み:ミューテーションテストの企業統治への応用

では、反応証明はどうすれば得られるか。ヒントは、法務エッセイの題材としては縁遠いソフトウェア工学の世界にある。

ミューテーションテスト(変異テスト)は、テスト対象のプログラムに意図的に小さな欠陥を埋め込み、既存のテスト群がそれを検出できるかを測る手法である。ここで評価されるのはプログラムの品質ではなく、テスト自体の検出能力だ。注目すべきは、仕込んだ欠陥がテストに「検出される」ことが好ましい結果として設計されている点である。

異常を見逃さないかを確かめるために、あえて異常を投げ込む。この一見逆説的な発想は、監査や内部通報の対応訓練にも、ほぼそのまま翻訳できる。テストが何度も「成功」していることを確認するだけでは、そのテストが本当に問題を捉えているかは分からない。欠陥を投げ込んでもなお「成功」と報告し続けるテスト群は、品質を保証しているのではなく、異常を見逃していることを示しているに過ぎない。

これをそのままガバナンスに移そう。規程の整備、研修の実施、年次の自己点検シートの回収、監査報告書の提出。これらはいずれも「制度が存在し、動いていることを示す」証跡に過ぎず、欠陥が存在したときに制度が反応するかを示すものではない。確かめる営みを一歩進めるには、人工的な欠陥を注入して反応を見るほかない。例えば、次のような模擬事案を用いて演習を実施してみるのである。

第1に、経営幹部が関係する疑義が通報されたとき、当該幹部から独立した報告経路に入るか。

第2に、重要取引の審査資料から結論を左右する情報が欠けているとき、不足を指摘して追加確認を求める審査官が現れるか。

第3に、調査で問題が認められたのに事業部門が是正に反対したとき、判断権者、期限、再報告先は明らかになっているか。

第4に、重大な懸念に担当部署が返答しないまま放置されたとき、上位者への報告(エスカレーション)が自動的に行われるか。

こうした演習で検出に失敗したとしても、それは担当者を糾弾すべき失敗でも、隠すべき失態でもない。むしろ制度の弱点を、本番の事故より先に見つけた成果として受け止めるべきである。

もとより、模擬事案を検出できなかったことだけで直ちに個別の法令違反や取締役の責任が生じるわけではない。この種の演習を欠いたことと善管注意義務違反とを短絡的に結びつける議論は避けるべきであり、責任を論じる場合には、別途、適用法令と具体的事実に即した検討が必要である。そのことを踏まえたうえでなお、欠陥を注入して反応を見る演習、いわばガバナンスのミューテーションテストは、「確かめる」という営みの最も精緻な形態のひとつだと言える。

発見から是正までを、誰が引き受けるか

法務の論点を整理しよう。発見と是正の断絶は、次の4つの要素で点検・測定することができる。

① 情報:判断に必要な事実は、どこまで確認されているか。

② 権限:追加調査、取引の保留、条件変更を、誰が判断できるか。

③ 対応:何を、いつまでに行うか。

④ 確認:対応が実施され、問題が解消したことを、誰が見届けるか。

そして、この4つの要素は、会社法上の内部統制システムの整備義務の骨格とほぼ重なり合う。取締役会は、会社法362条4項6号(取締役会の権限等)および会社法施行規則100条(業務の適正を確保するための体制)に基づく決議を通じて、取締役の職務の執行に係る情報の保存・管理に関する体制、損失の危険の管理に関する規程その他の体制等を定める。

しかしここで重要なのは、決議の文言そのものではない。「疑義が生じたとき、誰が、どの権限で、いつまでに是正し、誰が確認するか」という定めが、現場の判断経路として実際に機能するか、である。法務部門の役割は「違法かどうか」という結論を出すことにとどまらず、判断に必要な情報と、その後の対応とをつなぐことにある。

『裸の王様』に戻れば、あの行列を止められた可能性は2つあった。王様自身が「行列をやめる」と決めること、あるいは、行列の進行を制御できる権限を持つ誰かが、現実に止めることだ。組織論的に言えば、後者こそ制度の本質である。監査役の報告請求権や違法行為差止請求権、取締役会の監督権限は、いわば行列を止めるための法定の引き金である。

だが、引き金が引かれたとき、誰の手が、どの順序で、制動にかかるのか。ここまで具体化して初めて、権限は設計されたと言える。先に見た公益通報者保護法の指針・指針の解説が、経営幹部が関係する問題事案を監査役等や社外取締役などへの独立した経路で扱うよう求めているのも内部通報窓口の設置と並んで、まさにこの「止める権限」の所在を明らかにしようとするものである。

是正は、次の発見の“触媒”となるか

ここで、硤合氏の受賞理由に立ち返ろう。

世界が驚いたのは、ほんのわずかな偏りが、やがて世界全体の向きを決めてしまうという、化学の不思議であった。不斉自己触媒作用とは、反応の生成物そのものが触媒となり、自らの反応をさらに増幅させていく現象である。極めて微量にしか存在しない初期の「ゆらぎ」が、自己増幅を経て、一方の鏡像体が圧倒的に優勢な状態へと育っていく。

興味深いのは、系全体の向きを決めるのが、外から与えられた巨大な力ではなく、最初のごく小さな偏りだという点である。生体を形づくる分子がなぜ左右の一方に偏っているのかという、生命の起源にかかわる謎(ホモキラリティー)を解く手がかりとしてこの現象が注目されるのも、そのためである。

ガバナンスにおいても、同じ増幅を考えることができる。1つの通報が1つの是正で終わるのではなく、その是正事例が、規程の改訂、教育の題材、モニタリングの強化、そして次の演習のシナリオへと還流する。是正が次の発見の触媒となるとき、制度は静的な設計図から、生きた自己触媒サイクルへと変わる。

逆に、是正がどこにも還流しなければ、制度は幾度通報を受けても増幅しない。王様の行列は、同じ衣装を着て、翌年も同じ通りを練り歩く。

法務担当者にとって最も重要な問いは、「この是正は終わったか」ではなく、「この是正は、次の何を育てたか」である。初期のわずかな気づきを増幅し、組織全体の認識を歪めずに変えていく。それが、ガバナンスの実効性の化学的基礎だと考えたい。

ところで、硤合氏は「完全に解明できたわけではなく、まだまだ面白いことがあるはず」と語った。栄誉ある到達点も、探究を終わらせる理由にはならない。制度の整備も同じである。規程を整え、通報窓口を設け、点検表を回収し終えた時点が、確かめ終えた時点であるとは限らない。

「王様は裸だ!」と発した子どもの声は、発見の始点に過ぎない。次の問いは、法務の問いである――。王様の行列を、誰が、どの権限で、止めるのか。そして止めた後、その一歩は、次の発見の触媒となるのか。暗い道にヘッドライトを付けて進む研究の歩みと同じように、制度の確かめにも、終わりの地点はない。

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