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【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#14】1991年監査基準大改訂に影響を与えた米国公認会計士協会の動向《1970~80年代》

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【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#13】バブル期の経営層不正と「監査基準」25年ぶり改訂へ《昭和末期~平成初期》

2026年10月07日

八田 進二

1991年(平成3年)12月の監査基準、監査実施準則および監査報告準則の改訂は66年(昭和41年)から実に「25年ぶりの大改訂」であった(監査実施準則については65年改訂)。さすがに四半世紀ぶりの改訂ということもあり、普段は会計監査の問題を扱うことの少ない経済媒体においても、関心をもって報じられた。

記憶に新しいのは、当時、監査論研究者がこぞって、この91年の監査基準改訂についての論文を発表するような状況が見られたことだ。それはさながら、「ようやく新たな研究素材が見つかった」といった雰囲気に包まれたものだった。

逆に言えば、それまでの四半世紀、良し悪しは別として、わが国の監査制度は“無風状態”で継続してきたのである。

その間、大半の日本の実務家は気にもとめなかったが、欧米を中心に会計監査の国際化が目まぐるしく進展していた。また、同じくその間に、当初想定されていなかったような財務報告をめぐる不正、そして「監査の失敗」が顕在化してきた。そのため、これらの動向を踏まえながら監査基準等を全面的に見直そうという流れで、この91年の大改訂がなされたのである。

企業会計審議会が語る「25年ぶりの大改訂」の経緯

企業会計審議会は1991年12月26日公表の「監査基準、監査実施準則及び監査報告準則の改訂について」では、わが国で初めて監査基準等が設定された50年(昭和25年)から説き起こし、次のような流れでその趣旨を記載している。

「昭和四十年九月及び四十一年四月には、経済成長に伴う企業規模の拡大、一部の被監査会社におけるいわゆる粉飾決算に対する社会的批判の高まり等を契機としてこれら基準及び準則の全面的な改訂が行われた。更にその後、連結財務諸表制度及び中間財務諸表制度の導入に伴い、これらに係る監査基準及び準則が新たに設けられた。」

と25年前の改訂経緯などを振り返ったうえで、

「しかしながら、監査基準及び準則の全面的改訂が行われた昭和四十年代以降の監査環境の変化を省みると、我が国経済の飛躍的発展とともに企業規模は急速に拡大し、また、その経営活動の内容も著しく複雑・多様化し、証券・金融市場も国際化してきている。更に、急速な技術革新に伴う情報化社会の到来により企業の会計システムも著しく高度化してきている。」

加えて、74年(同49年)の商法特例法(株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律)制定による会計監査人監査制度の導入や、学校法人監査等の監査領域の拡大、さらには、66年(同41年)の公認会計士法改正で監査法人制度が創設されたことなど、監査制度をめぐる動向に触れながら、日本の会計監査を取り巻く状況が大きく変わっている現状認識を示して、

「監査環境の変化に適切に対応し、併せて公正な監査慣行を新たに明文化する等により、我が国監査制度の一層の充実とその有効かつ円滑な運営を図るためである。」

とその趣旨を締め括っているのである。もっともこの企業会計審議会の改訂監査基準の “前文”のとおり、それまでの四半世紀における環境変化は大きく、とりわけわが国の公認会計士業界は著しいスピードで国際対応を迫られていた。実際、この91年の監査基準の大改訂自体も、すべからく内発的な“メイド・イン・ジャパン”というものではなく、米国公認会計士協会(AICPA)を軸とした同国における会計監査の大改革を大きく受容するかたちで進んだものであった。

そのようなことから、監査基準等の改訂の詳細に触れる前に1970年代から80年代中期にかけてのアメリカの状況を概観しておきたい。

米国で相次いだ監査の失敗から生まれた「コーエン委員会報告」

1970年前後、アメリカの公認会計士業界では“訴訟の嵐”と言えるほど、株主等から監査人が訴えられるケースが多発する。すなわち、同国の上場会社において粉飾決算等が相次いで発覚する中、経営者責任は元より監査の失敗が問われるような事案が続発したのである。

金融の中心地・ウォール街のニューヨーク証券取引所

そもそもアメリカは訴訟大国であるが、こうした事態を重くみたAICPAは1974年(昭和49年)、監査人の責任はどうあるべきかを正面から考えるべきだということで、「監査人の責任に関する委員会」を発足させる。なお、同委員会は座長を務めた元米国証券取引委員会(SEC)委員長、マニュエル・F・コーエン氏の名前をとったコーエン委員会の名でも知られている。

コーエン委員会は78年(同53年)に報告書(コーエンレポート)を公表するが、その内容は会計監査が抱える多くの問題点を浮き彫りにするとともに、多種多様な提言を盛り込んだものであった。それは全世界の監査制度およびその実務のみならず、監査論にも多大な影響を及ぼし、日本では12年後の90年に、『財務諸表監査の基本的枠組み』と題する翻訳書が出版されている。

コーエン委員会が初めて指摘した「期待ギャップ」問題

同報告書の指摘の中でも特筆すべきが、社会や市場が監査や監査人に求める役割期待と、監査人たる公認会計士およびその業界が自ら考える役割との間に大きな齟齬があるという点を認識したことだった。今日において「エクスペクテーション・ギャップ(期待ギャップ)」として知られる問題である。

これまでの多くの不正会計問題は言うに及ばず、上場会社で粉飾決算が発生するたびに、世間は「どうして担当していた公認会計士や監査法人は不正を見抜けなかったのか」と監査人を指弾する。言い換えれば、監査人は「不正を見抜けて当然」と認識されており、これが社会の期待と言える。

一方、公認会計士業界側からしてみれば、「被監査企業が組織的、意図的に仕組んだ不正など、われわれ監査人でも見抜くことは出来ない」、さらに「監査は対象企業との信頼関係、協力関係で行われるのが前提である」と考えている。

そのためコーエン報告書は、監査人の責任が問われる事態の背景には、社会の役割期待と公認会計士業界側の自己の役割認識との間に齟齬があり、両者の狭間をどうやって擦り合わせるかに解決の糸口があるとの問題を提起したのである。

コーエン報告書の作成段階において、この期待ギャップを解消するための方策をめぐって、さまざまな議論が行われた。そのひとつが、監査報告書の結論部分に関するものである。

監査人は監査報告書の結論において、一般的に「この会社の財務諸表は、同社の財政状態、経営成績を適正に表示していると認める」との旨を記載することになっており、これを「適正表示(フェア・プレゼンテーション)」に関する意見という。コーエン委員会では、一般社会ではこの監査人の適正意見の表明は、当該企業の財務諸表を100%完璧なものと見做すとともに、今後も、経営が継続することを保証しているのではないか……そうした議論が俎上に載せられた。

監査関係者においては周知のとおり、公認会計士業界からしてみれば、少なくとも監査人が必要と認めた監査手続を実施することで、当該財務諸表が企業会計の基準に準拠して作成されており、ゆえに財務諸表全体として意思決定材料として利用しても問題がない、との意見を表明しているに過ぎないのである。逆に言えば、適正意見とは「利用者の意思決定を誤らせるものではない」という程度のものであって、財務諸表上に一点の誤謬や不正もないなど、まったくもって表明していないというわけである。

そこで委員会では、長く監査報告書の結論として用いられてきた、適正表示(フェア・プレゼンテーション)という言葉自体の使用をやめるべきだという議論まで提起された。この提案は草案レベルでは残ったものの、反対意見も多く最終報告では記載が見送られたが、コーエン委員会では、事程左様に監査の原点に至る議論が展開されたのである。

米国公認会計士協会(AICPA)100周年と「アンダーソン委員会報告」

粉飾決算の続発と監査人に対する責任追及問題を契機として結実した1978年(昭和53年)のコーエン報告書であるが、当時、大学院生だった私の関心は、種々の問題はあるにせよ、AICPAが監査制度を担ってきた長い歴史の中で、同国社会から尊敬を集めているということであった。そもそも期待ギャップその存在自体、社会からの非常に大きな役割期待の裏返しと言える。なぜ、アメリカでは監査業務を担う公認会計士に対して、それほど高い信頼と期待を寄せているのか。これはその後、監査論研究を続ける私の重要な研究テーマとなっていく。

結論から先に言うと、社会からの期待と信頼の核心にあるのは、アメリカの公認会計士業界が厳格な職業基準、中でも倫理基準を堅持してきたことにほかならない。

個々の会計士は職業基準で自らを律し、業界全体は自主規制によって機能している。だからこそ、社会から信頼を受け、独占的な権限として監査意見を表明することができる。ただ、70~80年代に外部から厳しい批判を受けることになったのは、そのタガが少し緩んできていたためではないか。しかしいま、われわれは眼前にある諸問題を自律的に解消しようとしている――。そうした考えがアメリカの公認会計士業界の自己認識だったと言えよう。

そのようなムードの中で迎えようとしていたのが、87年(同62年)のAICPA創立100周年であった。
 
同協会は、実際には複数の組織体が合併を繰り返し今日に至るのだが、その源流は19世紀後期の1887年、日本では明治20年までさかのぼることができる。AICPAでは、当時、課題となっている問題をすべて解決したうえで、新たな100年を迎えようという機運に包まれていた。

そして前年の86年(同61年)、「公認会計士の職業行為基準特別委員会報告書」が公表される。コーエン委員会と同様、委員長を務めた有力公認会計士のジョージ・D・アンダーソン氏の名に因んでアンダーソン委員会として歴史に名を刻んでいる。そもそもAICPAは83年10月、アンダーソン氏を委員長とする「公認会計士の職業行為基準特別委員会」を設置し、会計プロフェッションが直面する問題として、現行の倫理基準の有効性と、質の高い業務および公共の利益に対する達成度を包括的に評価することを課したのである。

同報告書は、私が翻訳し91年に『会計プロフェッションの職業基準』との表題で上梓したが、その内容を端的に言うと、AICPAの次なる100年を目途として、倫理規則を全面的に見直すことを提言したものである。なお、米国では倫理規則のことを「職業行為基準」(Code of Professional Conduct)と称している。

会計士資格受験の厳格化

公認会計士の業務基準の見直しと質の向上を目指して、アンダーソン委員会報告では、冒頭において、会計プロフェッションに対して「公共の利益に奉仕し、かつ、社会の信頼を保持しうる能力を高めることで急激に変化する環境に積極的に対応すること」を要求していた。

そのためにも、AICPA会員の資質向上を目指して検討されたのが、公認会計士資格の取得要件を厳格化するというものであった。それは、2000年以降の公認会計士試験受験者に対して、大学学部卒業レベル以上の教育履修要件を150単位(150セメスター・アワーズ)に引き上げ、これを取得した者でなければ、公認会計士試験を受験できないように提言したのである。
 
一般的なアメリカの4年制大学を卒業するには120~130単位が標準とされていることからも、150単位を学部4年間で取得することがいかに困難であるか、お分かりいただけよう。そのため、アメリカの場合、会計系学部の多くは5年制となっており、あるいは学部4年を終えて1~2年の修士コースに進むことになる。

なお、アンダーソン委員会報告後、90年代に2度改正された統一会計士法(米国公認会計士の資格制度に関する標準モデル法案)では、取得単位数の要件を150単位に増やすだけでなく、そのうち、会計科目は24から30単位、ビジネス科目は24から36単位と、科目に関する要件も追加された。つまり、AICPAは80年代半ばから90年代において、将来の会計監査の専門職能人である会計プロフェッションがより高度な教育歴を持つべきであるとの信念を表明しているのである。

実際、88年開催のAICPAの会員総会で、この受験資格厳格化の提言は決議され、予定どおり21世紀から適用されることとなった。片や日本の状況を見ると、本シリーズでのちに触れるが、アメリカの流れに逆行するようなかたちで、2003年の公認会計士法改正においてすべての受験資格要件を撤廃、会計プロフェッションの素養をめぐる彼我の差は歴然となっている。

継続的専門研修「CPE」制度の導入

アンダーソン委員会のもうひとつの大きな提言が、資格取得後教育、すなわち継続的専門研修(CPE=Continual Professional Education)制度の導入である。すでに公認会計士資格を持つAICPAの全会員に対して、同協会が認定する各種研修への参加や講座の履修、専門記事や論文の執筆等を通して、定められた単位を一定期間に取得することを義務付けるという大改革を提唱したのだ。ちなみに、州によって詳細は異なるが、3年間で120単位というのが一般的で、現に公共会計実務に従事していない会員であっても、一律に適用されることとなったのである。

いずれにしても、公認会計士試験に一度合格したからといって、生涯にわたってその資格を無条件では有効とせず、恒常的な研鑽を各会員に課すことで、会計プロフェッションとしての知見を日々アップグレードしていこうという考えに根差したものである。88年に会員投票でこれを採択し、90年からの適用を決定した。それはまさに、AICPAの自主規制団体としての面目躍如だったと言えよう。

なお、日本公認会計士協会の場合のCPE制度は、98年4月より会員の任意参加でスタートし、2002年からは協会の自主規制として会員に対して義務化。その後2006年度から、改正公認会計士法第28条の下、法定義務化されているが、もともとは、アメリカの制度に範をとってのものだったことは言うまでもない。なお、このCPE制度は、国際会計士連盟で使用が始まったCPD制度(継続的専門能力開発制度CPD=Continual Professional Development)の呼称を受け入れて、日本公認会計士協会でもCPD制度と称するようになった。

ニューヨークで大々的に開催「米国公認会計士協会100周年記念大会」

ニューヨーク・マンハッタンの摩天楼

将来の会計プロフェッションのあるべき姿を長期的な視野に立って提言したアンダーソン委員会。先述のとおり、同委員会報告が公表された翌年の87年(同62年)、AICPAは満を持して、創立100周年の記念すべき年次大会を迎える。ニューヨーク・マンハッタンのホテルで同年9月19日から23日にかけて大々的なセレモニーを挙行したのである。

私自身、AICPAの当時の大改革に強い関心をいだいていたことから、この記念すべき大会への参加を希望し、本シリーズ前回#13で触れた当時の日本公認会計士協会会長で、企業会計審議会第三部会長(現監査部会長)を務めることになる村山德五郎氏に参加するための支援を依頼したのである。

その結果、村山氏は中央会計事務所(のちの中央青山監査法人)の代表社員で、当時、中央と提携関係にあったプライス・ウォーターハウス(のちのプライスウォーターハウスクーパース=PwC)にいる部下に、私たちのサポートを依頼してくれたのである。

大会では、アンダーソン委員会報告にあった数々の提言などが公認会計士である会員たちの投票によって次々と決議され、「次の100年をさらに発展させよう」という熱気にみなぎっていた。そのようななかでAICPAを中心とした5つの団体が、2年前から進めていたプロジェクトについての報告書が発表される。

「不正な財務報告全米委員会報告書」――。私は同報告書に強い刺激を受けて帰国することになるのだが、この詳細については次回に譲りたい。

(#15につづく)

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