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正しさは、どこで決まるのか:テスラ特許料訴訟と巨額報酬判決が見せつけた「制度間競争」時代の企業法務【遠藤元一弁護士の「ガバナンス&ロー」#47】

2026年10月3日の日本経済新聞(電子版)に「つながる車の特許使用料は高すぎるか」という記事が載っていた。コネクテッドカー(つながる車)が使う高速通信規格5Gに必須の特許の使用料をめぐり、米テスラが、その特許を束ねるライセンス契約サービスの米アバンシと争っている。

争点は、1台あたり32ドルという料率が高いか安いか、という素朴なものである。けれど読み進めるほどに、争点の重心はいつの間にかずれていく。問われているのは値段そのものではなく、その答えを「どこ」で聞くのか、ということらしい。

値段の当否なら、読者も筆者も扱い慣れている。相見積もりを取り、相場を調べ、交渉の席に着く。ところが答える側が1つでないとき、相場そのものが場所によって揺れ始める。この記事が映しているのは、その“揺れ”である。

テスラvs.アバンシ「特許料訴訟」英・独裁判所が示す2つの方向性

標準規格に欠かせない特許には、公正・合理的・非差別的な条件で許諾する義務が課される。これが、それぞれの頭文字をとった「FRAND」(Fair, Reasonable, And Non-Discriminatory)である。今年2026年7月、英国最高裁はテスラの主張を認めた。一審と二審ではアバンシ側が勝っていた。その流れを、最高裁は一転させた。

FRANDを宣言するのは特許権者であって、アバンシ自体は特許を持たない。それでも、特許を束ねる立場にある者が示す料率にまで、審査は及ぶ——最高裁はそう整理し、英国の裁判所がアバンシのライセンス料を精査する道を開いたのである。

ただし、この判決は裁判管轄をめぐる争いに対するものだ。最高裁が自ら料率を定めたわけではなく、審理は差し戻され、実際に料率が下がるかどうかは、これからの特許裁判所の判断に委ねられている。

その翌月、独ミュンヘン地裁の特許専門部は、FRAND条件に関する判断の指針を公表した。目を引くのは、アバンシに有利な考え方が打ち出された点である。1台あたり32ドルという現行の料率はFRANDの範囲内にあるばかりか、むしろ低い可能性がある、と。

日経の記事によれば、日本の大手を含む世界100以上の自動車ブランドが、すでにアバンシと契約している。公正な料率に唯一の正解はなく、一定の範囲に収まればよいとすれば、すでに多くの企業が受け入れた料率は、その範囲を測る有力な物差しになる。ただし、この指針は同地裁の1つの部の見解に過ぎず、ドイツの、まして欧州の裁判所すべてを拘束するものではない。同記事は、各国の裁判所が特色を競い、訴訟を自国に呼び込もうとしていると伝える。

同じFRANDという言葉が、ロンドンでは料率を問い直す方向に、ミュンヘンでは料率を支える方向に働いている。答えは1つのはずなのに、聞く場所によって、返ってくる声色が違う。法の言葉は、それが読まれる場所の重力を帯びるのである。

英国最高裁判所

裁判所は「答える場所」から「選ばれる場所」へ?

ミュンヘンの指針を、訴訟誘致のための宣伝と片づけるのは公平でない。判断の基準を前もって示すことは、法的安定性という正当な価値に仕える。どの資料を揃え、どこまで支払い、どんな担保を積めば誠実な実施者と認められるのか。当事者はそれを訴訟の前に知ることができ、紛争はその分だけ短く、安くなるかもしれない。訴訟予算を組み、引当金を見積もる側から見れば、 “先が読める裁判所”はありがたい裁判所でもある。

ただ、指針にはもう1つの効き目がある。判決を待たずに、市場の振る舞いを先回りして形づくってしまうのだ。特許を使う側(実施者)は指針の要件を満たす準備を先に整え、権利者は差止めの威力が強いドイツを選ぶ。これに対して英国が2020年の最高裁判決以来、世界全体に通用する料率を定める場として名を上げてきた。料率を決めてもらいたい実施者は英国へ、差止めで圧力をかけたい権利者はドイツへと、ちょうど対照をなす。そしてこの選択を享受できるのは、複数の国で同時に訴訟を抱えられる体力のある当事者に限られる。裁判所の競争は、裁判所を選べる者と選べない者とを、主張の正しさとは関係なく分けていく。

欧州には23年、統一特許裁判所(UPC)も加わった。国の裁判所と新しい国際的な裁判所とが、同じ紛争を前に、それぞれの読み筋を示し始めている。品揃えが増えれば、選ぶ側の目利きもまた問われる。予見可能性は公正の敵ではない。

しかし予見可能性だけでは、公正は守れない。

「イーロン・マスク巨額報酬判決」米デラウェア州の揺れる対応

ここで、少し別の地図を広げてみたい。テスラは2024年、会社の登記を米デラウェア州からテキサス州へ移した。きっかけは、イーロン・マスクCEO(最高経営責任者)の巨額報酬をめぐってデラウェアの裁判所が下した厳しい判断だった。テスラの後を追う企業が相次ぎ、デラウェアは25年3月、支配株主との取引に「安全港(セーフハーバー)」を設けるなどの会社法改正(SB21)で応じた。株主保護の後退だという批判と、予見可能性の回復だという評価とが、いまも並び立っている。

同じ会社が、ある場面では「どの裁判所に裁かれるか」を、別の場面では「どの州の会社法に統べられるか」を選んでいる。制度は企業にとって、与えられた風景ではなく、品定めの対象になった。法は、仰ぎ見るものから、見比べるものへと姿を変えつつある。

米国の会社法学には、半世紀来の論争がある。1974年、米証券取引委員会(SEC)委員長も務めたコロンビア大学教授のウィリアム・ケアリーは、州同士の競争は経営者に迎合して株主保護を削る「底辺への競争」だと論じた。3年後、法学者で判事のラルフ・ウィンターは、非効率な法の州からは資本が逃げるのだから、競争はむしろ「頂点への競争」になると反論した。

FRANDをめぐる法廷地の競い合いは、この古い論争を国境の外へ持ち出したものとも読める。どちらに転ぶのかは、まだ決めずにおこう。その前に、もうひとつ遠回りをしたい。

忠実すぎるAI:ルールへの忠誠か、ルールの趣旨への忠誠か

AI(人工知能)の研究には、示唆に富む失敗談がある。ボートレースのゲームで得点を最大にするよう学習させたAIが、ゴールを目指さず、得点アイテムの湧く入り江を延々と回り続けたのだ。

確かに指示には完璧に従っている。ただ、レースには勝っていない。AIは怠けたのでも、反抗したのでもない。むしろ、得点という指標にあまりに忠実だったのである。

指標は、本当に達成したい価値の代理に過ぎない。代理を強く追うほど、代理と価値は離れていく。「指標が目標になると、良い指標ではなくなる」というグッドハートの法則である。AIが正しさよりも利用者の機嫌に忠実になる「迎合」も、同じ構図の別の顔と言えるだろう。忠誠の宛先が、ほんの少しズレているのだ。

興味深いのは、この失敗が設計者の手抜かりから生まれるとは限らないことだ。目的を言葉や数字にした瞬間、言い表せなかった部分がこぼれ落ちる。こぼれ落ちた隙間を、最適化はいちばん効率よく見つけ出す。だから開発の現場では、点数を上げることと同じくらい、点数が上がった理由を確かめることに手間をかける。高得点は朗報であると同時に、疑いの入口でもある。契約書を起案する者なら、この感覚には覚えがあるはずだ。定義を詰めるほど、定義の外縁に、相手方の工夫の余地が生まれる。

ルールへの忠実さと、ルールの趣旨への忠実さは、似ているようで違う。

基準が「数字」に変わるとき、それは攻略の対象に

法の「明確な基準」もまた、代理である。仮に既存の契約との比較が物差しになるのなら、権利者には、早いうちに多くの契約を積み上げておく誘因が生まれる。早期に契約すれば1台29ドル、通常は32ドル——コネクテッドカーの特許使用料におけるこの差も、その誘因の表れのひとつだろう。それを不正と呼ぶつもりはない。構造がそういう動きを許す、というだけのことだ。

けれども、裁判所が市場を参照し、市場が裁判所の示した基準を参照し始めると、両者は互いを映し合う合わせ鏡になる。そのとき市場の受容は、正しさの証であると同時に、競争の結果でもありうる。多くの企業が受け入れたという事実は、その料率が公正だったからかもしれないし、争うよりも払うほうが安くついたからかもしれない。数字は、その2つを区別してくれない。

デラウェアのSB21にも、同じ影が差す。独立委員会や少数株主の承認といった手続を踏めば、裁判所の審査は緩やかになる。手続はやがてチェックリストになり、チェックリストは攻略の手順書になる。形式を満たした取引が、実質において株主に報いたかどうかは、また別の話だ。入り江を回り続けるボートと、どこが違うだろうか。

基準は、示した瞬間から、攻略の対象になるのだ。

自己修正の、もうひとつの条件

組織のIntegrity(インテグリティ)とは、無謬であることではなく、自らを正せることだ――最近、Integrityとは何かを突き詰めて考えて、筆者はこのように整理してみた。間違えない組織はない。間違いに気づき、直せる組織があるだけだ、と。

デラウェアの改正は一見、その好例に映る。判例の行き過ぎを立法が正し、州の最高裁も改正の合憲性を認めた。けれども、法人のフランチャイズ税が州の一般財源の4分の1から3割を占める同州にとって、企業の流出はとりもなおさず財政の問題でもある。

修正が顧客、納税してくれる企業を引き止めるためのものに見えるとき、それは誠実さの証として成り立つのだろうか。合法であることと誠実であることは、別の問いである。そして厄介なことに、同じ条文が、どちらの物語にも等しくよく似合ってしまう。条文だけを眺めていても、その改正が原理への回帰だったのか、顧客への配慮だったのかは、読み取れない。

AIでも事情は似ている。評価の点数が上がったとき、能力が伸びたのか、評価に合わせ込んだだけなのかを、外から見分けるのは難しい。直したという事実だけでは、何に向けて直したのかまでは分からないのである。

だとすれば、自己修正には、もうひとつ条件を添えるべきなのだろう。なぜ直したのかを、直して得をする人以外にも説明できること。修正の理由が、特定の顧客ではなく、一般的な原理につながっていること。この物差しを当てると、判断の理由を詳しく公にしたミュンヘンの指針は、むしろ誠実さの条件を満たす側にいる。結論に同意するかどうかとは別に、理由が開かれていれば、検証はできるからだ。競争そのものが悪いのではない。理由を語らない競争が、危ういのである。

自己修正は美徳である。ただしそれは、修正の理由を、修正の受益者以外にも語れるときに限られる。

正しさは、競争の対価か

では、制度が選ばれる時代に、実務の側は何を心得ておけばよいのか。最後に3つだけ挙げておきたい。

1つ目は、主張の一貫性である。法廷地を戦略的に選ぶのは正当だが、ある国で述べたことと別の国で述べたことが、国境を越えて矛盾していないか。訴訟記録は、いまや国境を越えて読まれる。今日の有利な一言が、明日には別の法廷で自社を縛る。選択の自由は、言葉の一貫性によってしか信用を得られない。

2つ目は、自社の指標の趣旨である。KPI(重要業績評価指標)も、コンプライアンスの点検項目も、内部統制の評価手続も、AIの報酬と同じく、いつか攻略される。攻略しているのが自分たち自身であることも、少なくない。点検表がすべて埋まった日こそ、その数字が何の代理だったのかを思い出しておきたい。

3つ目は、制度が変わった理由を読むことである。条文の新旧を見比べるだけでなく、なぜ変わったのかに目を凝らす。理由の語られ方に、その制度の誠実さはにじむ。そしてそれは、自社の規程を改めるとき、取締役会の議事録に何を書き残すのかという問いとして、そのまま跳ね返ってくる。

法務も会計も、制度の内側で正しく振る舞うことを仕事としてきた。けれども制度が選ばれ、競い、ときに顧客に合わせて形を変えるのなら、内側で正しいことだけでは足りない。どの制度の内側に立つのかという選択そのものが、説明を求められる時代になったのだと思う。法務の仕事の重心は、答えを知ることから、答えの置かれた場所を読むことへと、移りつつある。

特許料が高すぎるかどうか。その答えは、しばらくは国ごとに違って見えるだろう。だから、企業は答えを聞く場所を選ぶ。制度が競うとき、企業は自由になる。しかし制度の示す正しさが、選ばれるための競争の産物になるとき、企業は再び、自分で答えを疑わなければならない。有利な答えを選べる自由は、その疑いを引き受ける責任と引換えなのだと思う。

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