野村 彩:弁護士(和田倉門法律事務所)、公認不正検査士(CFE)
KDDIの連結子会社であるビッグローブおよび、その子会社であるジー・プランにおいて、広告代理事業をめぐる巨額の架空循環取引が行われていたことが明らかになった。
調査報告書によれば、本件では、実際には広告主からの委託が存在しないにもかかわらず、それが存在するかのように装い、上流代理店→本件子会社→下流代理店、そしてその下流代理店→上流代理店へと資金を循環させる取引が長期間継続されていた。影響額は売上高で合計2461億円(2024年3月期~26年3月期第3四半期の約2年半でも2043億円)、外部流出額で329億円(同313億円)に及ぶ。
もっとも、本件は、以前取り上げたニデック事件のような、いわゆる「組織ぐるみ」の会計不正とは少し性質が異なる。調査報告書上、本件架空循環取引を認識して実行していた社内関係者は、基本的にはジー・プランの部長a氏と同チームリーダーb氏の2名であったとされている。ジー・プラン、ビッグローブおよびKDDIの役員が、本件発覚以前に架空循環取引の存在を認識していたとは認められていない。
では、本件は単に「悪い2人組がいたもんだ!」という事案なのだろうか。
ここには構造的な何かが、潜んでいるような気がする。
ヒントになりそうなのが、かつてのベストセラー、1967年刊行の社会人類学者、中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)だ。本稿は、「中根先生の理論をKDDI事件に当てはめたらどうなるかな?」という分析を試みるものである。
日本はタテ、インドはヨコ
中根氏は、社会構造を2つに分類する。
「一定の個人から成る社会集団の構成の要因を、きわめて抽象的にとらえると、二つの異なる原理――資格と場――が設定できる。すなわち、集団構成の第一条件が、それを構成する個人の「資格」の共通性にあるものと、「場」の共有によるものである。」*1
*1 中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社現代新書(1967年)26頁
ここでいう「資格」とは、職業、専門性、身分、地位、学歴など、人がどのような属性を有しているかという側面である。これに対し、「場」とは、会社、部署、学校、家、地域といった、具体的に人が所属する枠をいう。
そして、日本社会は、圧倒的に「場」の力が強い。
わが国において、人はまず「私は○○家の人間である」「私はこの会社の人間である」「この部署の人間である」「この上司の下にいる人間である」という形で位置づけられやすい。そして、その「場」の中で、上司と部下、先輩と後輩、古参と新参といった「タテ」の関係が濃くなっていく。
これに対し、「資格」が優先される場合、たとえば中根氏がインド社会の例として挙げるカーストのように、同じ「資格」を共有する者同士の「ヨコ」の繋がりが強い。企業でいうと、「同じ会社」の「同じ部署」同士の者よりも、会計担当者は他社の会計担当者と、エンジニアは他の会社や部署のエンジニアと、など、職能や専門性を共有する「ヨコ」同士のほうが緊密なのである。

「場」に入れてくれた恩義ある上司
以上の点を踏まえ、本件のa氏とb氏の動機から、それぞれの関係を見てみよう。
本件においてはa氏が主犯で、b氏はa氏の部下である。
a氏の動機は、比較的分かりやすい。「広告代理事業の業績が当初の想定を下回り、同事業に対する業績改善への要請が徐々に高まっている状況の下で、a氏は、売上・利益が改善できなければ自らが立ち上げた広告代理事業の撤退を余儀なくされるとの焦りを抱いていた。」*2 ということで、こう言っては何だが、会計不正ではよくある動機である。
*2 KDDI特別調査委員会「調査報告書(公表版)」(2026年3月31日)67頁
その後、雪だるま式に取引額が膨れ上がっていき、次第に取り返しがつかなくなる。これも“あるある”である。そういった中でa氏は関係者からキャバクラ代などの私的な利益も得るようになり、どんどん泥沼にはまっていく。
これに対しb氏は、どうも私的な利益は得ていなかったようである。主犯でもない。では、なぜ長年にわたり関与から抜け出せなかったのだろうか。
調査報告書によれば、b氏は、2020年4月にジー・プランに入社し、主犯のa氏の下で広告代理事業に関与するようになった。b氏は、当初は広告運用の実体がない取引であることを認識しないまま、a氏の指示に従って本件架空循環取引に関与し、その後、遅くとも22年12月までにはその実体を認識したものの、内容虚偽の成果レポートの作成等を継続したとされている。
ここで注目すべきは、b氏がa氏に対し、自身の家庭事情に合った就業環境であるジー・プランに入れてもらったことへの恩義等を抱いていたとされている点である。
b氏にとってa氏は、b氏をジー・プランという「場」に入れてくれた人物であった。
ここで中根氏の理論に戻ると、同氏は、日本社会における「小集団」の重要性を説く。
「小集団」とは、毎日のように顔を合わせ、仕事や生活を共にする人々を指す。プロトタイプは農村における「家」だが、家族のメンバーと仕事のメンバーが一致しない場合は、同じ職場の仕事仲間が、この「小集団」となる。
「日本人が個人として生き生きとし、緊張を感じないで社交を楽しみ、仕事をするという状態のときは、いつもこの小集団の中にいるときである。」*3
*3 中根千枝『タテ社会の力学』講談社学術文庫(2009年)27頁
課長を飛び越えて部長にモノ申すのはNG
大企業においても、この前提は同様である。大きい組織においては、小集団が「タテ」につながっている。そして、小集団の中の個人は、大きな組織に直接的にはつながらない。個人は、まず小集団を通して大集団に参加する。
だからこそ、わが国の企業では、課長を飛び越えて部長に意見を言ってはイケナイのである。部長にモノを言うときは、あくまで小集団の「タテ」の長である課長からモノ申していただかなくてはならない。「個人は常に小集団を通して大集団に参加している」*4からだ。
*4 前掲『タテ社会の力学』41頁
この見方を前提にすると、b氏にとって重要だったのは、ジー・プランという会社全体というより、a氏の下で広告代理事業に従事する、より具体的で顔の見える業務上の単位であっただろう。本件で「場」として問題にすべきなのは、ジー・プランやKDDIグループ全体ではなく、a氏を中心として広告代理事業を動かしていた、ごく限られた人的関係である。
そして、本件において、前述の通りb氏がa氏に対し「自身の家庭事情に合った就業環境であるジー・プランに入れてもらったことへの恩義等を抱いていた」という点は、非常に象徴的である*5。
*5 前掲調査報告書68頁
というのも「小集団」においては、そこが職場であっても、互いの性格、生活事情、家族関係まで含めて、人が丸ごと把握されやすいという特徴があるためだ。日本社会における「タテ」の関係は、親分と子分に代表されるように、非常にパーソナルでエモーショナルなものなのである*6。
*6 前掲『タテ社会の人間関係』167頁
このように、とてもとても濃密な、閉じられた小集団においては、会社全体のルールやコンプライアンスという大集団の規範よりも、目の前の上司との「タテ」の温情関係の維持が優先されやすくなる。
b氏は、a氏の共犯者であると同時に、閉じた小集団の中で、a氏とのタテ関係を通じて自らの居場所を得ていた部下でもあった。だからこそ、その関係から自由に離脱し、ヨコの規範に接続することが難しくなっていた。
本件は、単に「悪い上司と従った部下」の問題ではなく、閉じた小集団の中で、上司への恩義、居場所、職務上の従属、そしてルールからの距離が折り重なった、構造上の問題を秘めているように思われる。
ルールやコンプライアンスが「人間関係」に負けるとき
ここで、日本社会における「ルール」のあり方について注目したい。
奇しくも『タテ社会の人間関係』と同じ年の1967年に刊行された民法・法社会学者、川島武宜先生の『日本人の法意識』(岩波新書)でも述べられている通り、「今日もなお、前近代的な法意識は、われわれの社会生活の中に根づよく残存し、「社会行動の次元における法」と「書かれた法」とのあいだの深刻重大なずれを生じている」*7。これは令和のいまにおいてもその通りで、「書かれた法」を守ること、つまり「コンプライアンス」が「しっくりこないんだよなあ〜」と感じてしまう場面はある。
*7 川島武宜『日本人の法意識』岩波新書(1967年)
この点も、中根理論はすっきりと読み解く。
「日本社会の場合にも(略)ルールはあるが、構造的に個人は小集団をとおして参加をしているので、小集団の枠が防波堤となって、そのルールが直接個人の出退を規制しえないメカニズムとなっている。したがって、個人が小集団の成員として許容されている限り、上位集団成員としてのルールを犯したとしても、それによってその特定個人が制裁を受けるということは極めて少ない。このことは、一方、大集団のルールを成員に貫徹することを困難にしているともいえよう。大集団のリーダーが苦労するゆえんである。」*8 *9
*8 前掲『タテ社会の力学』46頁
*9 なお、これに対し「資格」が重要な「ヨコ」社会では、ルールこそが重要である。「資格」の有無はルールで明確に決まり、そこに繋がりの中の甘えはほとんどない。
おおお〜。そう! そうなんですよ!
私たちにとっては、よく知らない「お上が決めたルール」や「会社の規程」よりも、一緒にいる数人の人間関係において暗黙のルールを守り、場を乱さないことのほうがよっぽど重要なんですよ!
……と思わず膝を打ってしまう。
中根理論の面白いところは、我々が「そーゆーのって当然だよね? 人間だもの」と思っていたところに「いや、人間みんなじゃないです。ウチんとこの独自キャラです」と、日本における特殊性を突っ込んでくれるところである。
この点を本件不正事案に当てはめてみると、構造が見えやすくなる。
本件では、ルールが存在しなかったわけではない。購買コンプライアンスガイドラインは存在していた。購買プロセスにおける権限分離も、本来は求められていた。売上計上マニュアルも存在していた。内部監査も行われていた。しかし、広告代理事業の商流や業界慣行については、a氏・b氏の説明が強い意味を持っていた。現場が「この業界ではこういうものです」と説明したとき、ウチとソトの乖離が強い「場」の社会において、それを疑うことは容易ではない。
まさに「小集団の枠が防波堤となる」状態だったといえる。
「この人たちに迷惑をかけられない」がパワハラを助長する
以上の構造は、そのままパワハラの問題にもつながる。
パワハラの現場においても、閉じた部署、閉じたチーム、閉じたプロジェクトの中で、人々は仕事、評価、居場所、人間関係のすべてを小集団に握られている。
会社全体にはハラスメント防止規程がある。相談窓口もある。内部通報制度もある。人事部もみんなのことを考えている。だが、部下が実際に生きているのは、目の前の数人の小集団である。「この人たちに迷惑をかけるわけにはいかない」。そう思ってしまう。
中根理論を理解すると、規程を作るだけではハラスメントの根本的な解決にならないことが、よく分かる。相談窓口が、内部通報制度が、なかなかうまくいかない理由が、よく分かる。
じゃあ、どうすればええねん! という話だが、ここで当職が拙い意見を述べるより、最後に、令和に出版された「タテ社会」の続編から、中根氏の言葉を紹介して終わりたいと思う。なお、中根氏は続編刊行の2年後、2021年10月に94歳で亡くなられている。
「日本の集団には「封鎖性」と、「それがために行き過ぎてしまう」という問題があります。五〇年前とくらべると、たとえば内部告発などが見られるようになりました。タテを突き崩す動きが見られるようになって、組織にすき間ができつつあるのかもしれません。タテのシステム自体は変わらないにしても、封鎖的な集団に風穴を開ける機会は増えています。
そのためにも、小集団の封鎖性をはじめとした、日本の社会がもつ特徴を日本人自身が把握しておくことが必要なのです。」*10*10 中根千枝『タテ社会と現代日本』講談社現代新書(2019年)80・81頁
