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【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#13】バブル期の経営層不正と「監査基準」25年ぶり改訂へ《昭和末期~平成初期》

前回記事

【八田進二の「監査とガバナンスの未来」#12】昭和50年代前半に再び集中した粉飾決算事件とバブル経済の幕開け

2026年09月24日

八田 進二

前回(#12)の終わりにバブル期の1980~90年代は公認会計士、監査法人ら会計士業界にとって「無風の時代」であったと指摘した。確かにバブル期には大型の経済事件が多発し、その崩壊とともに一気に問題が噴出することになるが、会計士業界においては1975年の興人の粉飾経理をめぐる戒告を最後に、2000年代初頭まで監査人に懲戒処分が下されることのない期間が続く。

しかし、まったく問題がなかったというと、必ずしもそうではない。昭和の最末期になって経営層の不正が相次いで顕在化するのである。そして、この問題を通して監査のあり方が改めて問い直されることとなる。

バブル絶頂期に発覚した3つの経営層による巨額不正事件

バブル景気真っ只中の1987年(昭和62年)2月、日本経済新聞は「相次ぐ巨額の使い込み」と題する社説を掲載した(2月22日付朝刊)。

当時、企業幹部による巨額の不正事件が立て続けに発覚する。同記事はこれらを教訓に、違法行為の発生を防ぐよう「必要があれば企業経営を根本から見直していくべき」としたうえで、社長ら経営陣も監視の対象とする「米欧企業にもっと学ぶ必要がある」と警鐘を鳴らしている。その中で触れられたのが、以下の3つの事件である。

富士石油:経理責任者による20億円に上る横領事件

当時、共同石油グループ(現ENEOSグループ)の石油精製会社で、非上場の富士石油を舞台にした事件である(2000年代の組織改編を経て、現在は同名の別法人として出光興産の子会社となっている)。

同社の経理担当専務取締役が在職中、会社の余剰資金運用のために購入して銀行に預けていた利付金融債約20億円を約10年間にわたって勝手に持ち出し、自分の借金の返済に充てるなど着服していたことが露見。87年1月に社外の共犯者とともに業務上横領容疑で逮捕されたという特異な事案だった。

この取締役は会長・社長に次ぐナンバー3の地位で、86年に代表取締役専務に昇格し兼務していた経理部長職を解かれたことが問題発覚のきっかけになったが、入社以来、一貫して経理を担当していた。同一人物に10年間以上も経理を一手に掌握させたまま、十分なチェック体制が採られておらず、今で言うところの、内部統制が機能していないことが背景にあった事件である。

なお、非上場ながら商法特例法に基づく会計監査人による監査を受けていた富士石油だが、利付金融債の管理責任者であった同取締役は、銀行に預けている債券の残高証明書を巧妙に偽造するなどして、監査人を欺いていたという。

菱三商事:主力部門本部長による125億円の架空売買契約事件

富士石油事件の翌月、87年2月に発覚したのが中堅商社、菱三商事における架空売買契約事件だった(2020年設立の現YKアクロスの源流企業のひとつ)。取締役が在職中に取引業者と共謀して鋼材の購入代金名目で同社から約125億円を勝手に持ち出したというものである。

この取締役は86年末まで、菱三商事の売上高の約5割を占める鉄鋼関連部門の本部長を務めており、共謀した輸入業者が倉庫に保管していた合金鉄を買い取ったように装い、その架空売買代金は総額125億円にも及んだ。同社の内部調査によると、他の役員は不正をまったく認識しておらず、部下を使って架空の伝票を作成させたり、簿外扱い、長期在庫を期末に一括処理したりするなど、5年以上にわたって不正を続けていた。

さらに、不明朗な在庫証明を出していたために不正発覚が遅れたとして、菱三商事は倉庫会社を相手取って損害賠償請求訴訟を提起したという。ただ、同社も富士石油と同様、非上場であるものの、会計監査人監査を義務付けられている大会社だった。

加州三菱銀行:銀行側が起訴を拒んだアメリカ現法本店長による横領事件

今も昔も変わらないロサンゼルスの象徴「ハリウッドサイン」

菱三商事の事件発覚と同じ87年2月、三菱銀行(現三菱UFJ銀行)の米国子会社である加州三菱銀行(現ユニオン・バンクの源流)で、銀行ローンの不正操作等による約4,500万ドル(当時のレートで約70億円)の横領事件が明らかになる。

ただし、事件が実際に発生したのは発覚から数年前の80年(昭和55年)から84年のことだった。79年に三菱銀行からロサンゼルスの同銀に出向してきた幹部が本店長法人第一部長という地位を利用して、この間、企業への大口貸し付けという名目で額面総額9億ドル以上の架空融資を捏造、伝票の不正操作は実に135回に及んだ。

行内で不正が露見するのは、人事異動で84年10月にこの本店長が三菱銀行ニューヨーク支店次長に栄転したため、後任者が不正を発見し摘発したことによる。ところが、事件化するのはそれから2年以上。というのも、三菱銀行が管轄のロサンゼルス郡地方検事局に対し、刑事訴追の中止を要請していたからだった。

銀行側によると、本店長が架空融資で引き出した金額は累計4,500万ドルだったものの、発覚時点での被害額は21万ドルで、そこから本店長の返済分を差し引くと実損は13万ドルと軽微なものに過ぎないと主張。一方のロサンゼルス郡地方検事局は87年2月になって「本件は巨額の不正事件であるばかりでなく、企業内犯罪の典型的な問題を露呈している」として、業務上横領、銀行資産不正操作等7つの罪状で起訴するに至った。

加州三菱銀行については、大蔵省(当時)の検査も実施されていなかった。また、ロサンゼルス郡地方検事局は「横領犯罪が発覚しても、被害企業が、社会や株主から管理責任を問われることを恐れ、起訴しないように望むことが多い」といい、三菱銀行側は捜査に対して非協力的だったと指摘している。なお、本店長はギャンブルの資金に充てるために横領を働いたという。

日本公認会計士協会「相対的に危険性の高い財務諸表項目の監査手続の充実強化について」

おそらく、この3つの事件は当時において、経営層による不正事件としては氷山の一角に過ぎないものだったのかもしれない。また、上記のとおり、富士石油と菱三商事はともに非上場会社であるものの、商法特例法に基づく会計監査人監査が実行されていた。にもかかわらず、長期間にわたって事態が把握されず、結果、不正金額も大きく膨らんでいったという経緯がある。

そこで、日本公認会計士協会においても、監査人による直接的な「監査の失敗」とは言えないまでも、他人事では済まないという観点から議論が進むことになる。そしてその後、監査基準等の全面改訂に向かっていくのだが、会計士協会は1988年(昭和63年)10月、ひとつの文書を発表する。監査第一委員会報告第50号「相対的に危険性の高い財務諸表項目の監査手続の充実強化について」である。

「最近の企業の役職者による財産上の不正行為(企業の財産の不正使用、企業の財産の着服、企業への債務の転嫁等)の中には、企業に与える損害額が巨額に上るものがあり、財務諸表に重大な影響を与えると推測されるものが散見された。」

このような状況認識から始まる50号報告書は、監査実施準則における財務諸表の以下の7項目について「原則として確認等を実施することが公認会計士監査の社会的信頼性に応える意味においても必要と認められる」と、監査人に特に厳重に注意するよう促している。

(1)預金 預金先に対して確認を行う。
(2)手形債権 他に保管されている手形については、保管者に対して確認を行う。
(3)貸付金 債務者に対して確認を行う。
(4)有価証券 他に保管されている有価証券については、保管者に対して確認を行う。
(5)棚卸資産 倉庫業者、運送業者その他に保管されている棚卸資産については確認を行い、又は会社に実地棚卸を求め、立会を行う。
(6)借入金 借入先に対して確認を行う。
(7)偶発債務 保証先又は債権者に対して確認を行い、必要に応じて外部関係者に対して照会等を行う。

これらの手続は、富士石油、菱三商事、加州三菱銀行の3つの事件に対応し得る内容である一方、不正の実行者によって改竄されやすい、あるいは監査人が見逃しやすい項目に関する指摘であるが、今となっては至って当たり前のものと言える。とはいえ、日本公認会計士協会が問題の顕在化から比較的早い段階で、再発防止のために監査手続の強化を自ら提唱したことは、画期的だった。

私自身、50号報告書では匿名にされた3事件の詳細を改めて紐解き、90年に「経営者不正と監査人の責任」と題した論文を執筆して、監査との関係性や会計士協会の対応を検証した。各事件に関してのこれまでの記述も、その論文をもとにしたものである。

昭和から平成へ:会計士協会会長の企業会計審議会部会長就任と1991年の監査基準改訂

村山德五郎・日本公認会計士協会会長の存在感

ところで、1988年(昭和63年)当時の日本公認会計士協会長は監査法人中央会計事務所(のちの中央青山監査法人)の村山德五郎氏であった(在任は85~89年)。中央の創設者の一人で94年には合併後の中央新光監査法人の理事長を務めた実務家である。と同時に、学究肌の人物でもあり、私も2013年に亡くなる村山氏の晩年にその謦咳に接した一人である。

村山執行部が主導する形で50号報告書が出されたわけだが、本来であれば、監査手続上の問題は監査基準、監査実施準則、監査報告準則で規定しなければならない。しかし、当時の監査基準等では経営層の不正事案には対応しきれていない反面、それらを改訂するとなると、大蔵省の企業会計審議会での公式的な議論を経る必要がある。勢い、多大な時間がかかる。

そのため、次の監査基準等の改訂までは待てないということで、実務主導型で会計士協会が先んじて50号報告書を発表したのである。以降、これを嚆矢として公認会計士たち実務家が、監査人の行動規範づくりにエネルギーを注ぐようになっていく。

そのような中、87年から94年まで企業会計審議会会長を務めた新井清光氏(早稲田大学教授)の下で、村山氏が会計士協会長職のまま、監査基準をつくる同審議会第三部会長(現在の監査部会長)に抜擢される。基本的に大蔵省が主導し、大学の研究者が会長・部会長を務めることが通例だった同審議会において、監査の実務家が会長はおろか部会長に就任するのも前代未聞。いまに至るまで後にも先にもない人事だった。ただし、監査基準を遵守すべき立場の公認会計士本人が、その策定を司る公職に就くことを問題視する向きも根強く、賛否両論が渦巻いた。

私自身はアメリカ公認会計士協会のように、自主規制の要ともいえる監査基準を、自分たち手でつくることこそ、会計プロフェッションの自律性の発露と考え、村山氏の第三部会長就任に大いに賛同したが、それはそれとして、監査基準等の改訂において監査の実務家が以前にも増して強い影響力を発揮することになる。

50号報告書が促した監査実施準則の先行改訂

そして、元号が昭和から平成に変わった2カ月後の89年3月、企業会計審議会総会が監査基準、監査実施準則および監査報告準則の見直しを決定する。なかでも監査実施準則については同年5月、財務諸表に重要な影響を及ぼす不正行為等の発生の可能性に対処するため、他の2つに先駆けて改訂が行われた。それを促したのが、ほかならぬ日本公認会計士協会の50号報告書であり、「相対的に危険性の高い財務諸表項目に係る監査手続の充実」が図られることになったのである。

一方、国際的調和の必要性の増大や監査実務の進展に対応することを目的に、監査基準などの全般的見直しについての検討を行い、2年後の91年5月に企業会計審議会は「監査基準及び監査報告準則の改訂について(中間報告)」を公表し、同年12月、監査基準、監査実施準則、および監査報告準則を正式に改訂した。

まさに、それは1966年(昭和41年)4月の監査基準、監査報告準則の改訂以来の「25年ぶりの大改訂」(なお、監査実施準則については65年に改訂)であり、監査制度発展に向けた狼煙が上がったのである。

(#14につづく)

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