夏の朝、まだ涼しさの残る光がカーテン越しに白く差し込むころ、今日はどんな服で出かけようかと、鏡の前で少し思案する。かつては当然のように結んでいたネクタイ(筆者もかつて詳しかった)も、今ではその出番を失った会社が少なくない。スーツやワイシャツという制服然とした“ドレスコード”を課す組織は、もはやマイノリティとなっている。
けれども、装いの自由が広がったからといって、そこにルールが消えたわけではない。私服を選ぶという行為そのものが、実は、その日その場にふさわしい「ある種の規律」を自らに課す作業にほかならない。制服から私服へという変化は、規律の消滅ではなく、その置き所が組織から個人へとそっと移っただけのことなのかもしれない。
制服やスーツは、単なる布地ではなく、それは組織への帰属を示す記号であり、同時に、着る者の振る舞いを一定の型にはめ込む「規律」そのものでもある。制服を着た瞬間、私たちは自由な個人から、ある集団に属する構成員へと一時的に変換される。その変換は、時に安心感を与え、時に窮屈さを強いる。
昔から、ネクタイの結び目ひとつ、スカート丈ひとつにまで細かな規範が及ぶ組織もあれば、私服を許容し、個人の裁量に委ねる組織もあった。その差は、単なる社風の違いではなく、組織が個人の自己決定権をどこまで信頼し、どこまで裁量を許容するかという、ガバナンス上の信任の度合いでもある。
我々は、日々身にまとう規律と環境を、本当に自らの意思で選び取っているのだろうか。このシンプルな問いこそが、法務・ガバナンスの核心を照らし出す。

昆虫採集のドレスコードと「コンプライアンスの到達点」
蝉時雨が降りしきる森の入り口で、虫かごを片手に踏み込んでいく子どもたち(かつては筆者もそうだった)の服装を思い出してほしい。蝉たちの声に指揮者も楽譜もない。それぞれが自分のピッチとリズムで鳴き交わし、森全体でひとつのポリリズムを織りなしている。長袖のシャツ、長ズボン、帽子。それは見た目の装飾のためではない。虫刺されや擦り傷、藪の中の思わぬ危険から身を守るための、いわば「個人用保護具(PPE)」である。
そこにあるのは、「安全の確保」という目的のためだけに存在する必要最小限のルールであり、過剰な規律ではない。装飾を削ぎ落とし、機能だけが残る。これは法務・コンプライアンスが本来目指すべき姿と重なる。規律は、規律のための規律であってはならない。「何を守るためのルールか」が明確であってこそ、そのルールは納得感を持って受け入れられ、実効性を伴う。逆に、目的を見失った規律は形式主義に堕し、現場から敬遠される。敬遠された規律はやがて骨抜きとなり、誰も守らなくなり、その瞬間、ルールは実質を失って空洞化し、コンプライアンスの名の下に導入された仕組みが、かえって重大・潜在的なリスクを隠蔽させ、増幅させる温床へと変質してしまう。
一方、都市という舞台をまとうファッションは、安全確保のためのPPEとはまったく異なる機能を担う。それは自分がどのような人間であるかを他者に語りかける「シグナリング」であり、TPO(時・場所・場合)に応じて自らを主体的に演出する自己表現の作法である。同じ「装い」というものが、森の中では画一的な安全規律として機能し、街の中では多様な自己表現として機能する。この対比こそが、規律(コンプライアンス)と自己表現(自律)という、ガバナンスの両輪を象徴している。
木漏れ日が絶えず揺れる森の中には、蘭の花を思わせる鮮烈な色彩を誇るハナカマキリもいれば、枯れ葉に溶け込むようにひっそりと身を潜めるナナフシもいる。すべての昆虫がカブトムシのように主役を張る必要はないということが重要な点である。個性ではなく、それぞれが自分の生息域で、自分なりの生存戦略を選び取っている。この多様な生態系のあり方は、組織におけるD&I(ダイバーシティ&インクルージョン、多様性と包摂性)の本質を映す鏡でもある。画一的な「型」に押し込めるのではなく、多様な適応の形を許容することこそが、健全な生態系であり、健全な組織の条件なのだ。
神戸市が挑む「放課後ガバナンス」の大改修
さて、教育現場に視点を転じよう。長らく日本の中学校を支えてきた部活動は、いま「制度疲労」という言葉がふさわしい状態に陥っている。
従来の部活動は、学校という単一の行政機関が、生徒の放課後の時間と教員の勤務時間の双方を一括して管理する、中央集権型・職域一致型のガバナンスであった。指導も、大会引率も、日々の運営も、すべてが学校という1つの主体に集中する構造である。しかし、生徒数の減少による廃部の増加、単独では大会に出場できない学校の増加、教員の長時間労働、そして全国的な教員不足……。こうした要因が積み重なり、この一括管理型のガバナンスは、もはや制度として持続可能な限界を迎えている。教員が担う専門外の指導、生徒の希望と実際の活動選択肢とのミスマッチもまた、この制度疲労の一断面である。
この課題に対し、神戸市は中学校部活動を全面的に地域クラブ活動へと転換する「KOBE◆KATSU(コベカツ)」を開始する。2026年8月末までは既存の部活動を継続し、9月から本格的にコベカツへ移行する。2025〜27年にかけて活動団体の募集と実証事業を進め始め、段階を踏んで制度を育てる設計と説明されている。

コベカツが単なる「外注」や「民営化」と一線を画すのは、その設計思想にある。運営主体は学校ではなく、地域のスポーツ団体、文化芸術団体、大学、NPO、企業、保護者グループ、OB・OGなど、幅広い担い手が神戸市教育委員会の登録制のもとで参画する、いわば「プラットフォーム・ガバナンス」である。
教育委員会が一人の指揮者としてテンポを統率するのではなく、指揮者を持たない室内楽のように、多様な利害関係者(マルチステークホルダー)が各々の音色で主体的に活動を運営し、生徒がその中から選ぶ。校区は撤廃され、生徒は学区を越えて「やりたいこと」を選べるようになる。活動団体はわずか3名以上で申請でき、資格は不要で、一定の研修受講により参画できる。専門的な技術指導に限らず「趣味を一緒に楽しむ」活動も対象となる点は、大会の成果や勝敗という外発的な目標だけでなく、生徒自身の内発的な動機を尊重する理念の表れだろう。
法務・ガバナンスの文脈でいうと、「一律統制のハードロー」から、「選択的なコンプライアンス(ある種のソフトロー)」への転換であろう。全員が同じ部活動に所属し、教員がすべてを管理するスタイルから、理念に賛同した多様な団体が自由に登録し、生徒自身が選び取るスタイルへ。参入障壁を意図的に下げ、多様な担い手の裾野を広げる、柔軟で、レジリエント(弾力的)なガバナンス設計ともいえる。
ここでは、指導者も教員に限定されず、多様な人材が参画でき、希望する教員は兼職・兼業として関われる。活動時間の設計にも、巧妙さが表れている。平日は16時~20時半の間で2時間程度、土日は3時間程度を標準としつつ、平日夜間のみ、土日のみといった柔軟な設定も認められる。現行の部活動が実質1時間弱にとどまる実態を踏まえれば、むしろ十分な活動時間を確保する設計だといえる。費用は月会費等として原則家庭負担とし、保険はスポーツ安全保険等の枠組みも整えられている。活動場所も中学校施設に限定されず、地域の諸施設を活用できる点は、学校という単一の場に閉じない「移動の自由」を仕組みとして担保するものだ。
こうしたプラットフォーム型のガバナンスは、責任の所在を曖昧にするリスクと常に隣り合わせでもある。旧来のように学校が単独で管理責任を負う体制と異なり、多数の団体が分散して活動を担う以上、事故対応や指導の質をめぐるクレームが生じた際、誰が一次的責任を負うかを明確にしなければ、分散はたやすく無責任へと転化する。
神戸市教育委員会による登録制と研修受講という要件は、参入障壁を下げつつも最低限の質とアカウンタビリティを担保する「軽量だが芯のあるガバナンス」として機能することが期待される。自由と自己決定権を拡大する制度ほど、裏側でセーフティネットの設計が問われるのは、企業のグループガバナンスにも通じる教訓である。
選べることの自由と自己適合(フィット)の模索
もっとも、選択肢が増えることは、手放しで喜べることばかりではないことに留意する必要はありそうだ。ファッションもコベカツも、選べる幅が広がるほど、人は同時に「迷い」を抱える。何を選べばよいかわからないという迷いは、自由の裏面につきまとう、避けがたい税金のようなものだ。
だが、最初から完璧な1着、完璧な活動を選び当てる必要はどこにもない。むしろ、試して合わなければ変える、というトライ・アンド・エラーのプロセス(アジャイル)こそが、自分に適正なサイズ(自分に合ったガバナンスの規模)を見つける近道である。
夏の陽射しが朝と夕とで表情を変えるように、自分にしっくりくる場もまた、一度で見つかるとは限らない。コベカツが複数年をかけた実証事業として制度を育てる設計になっているのも、この「アジャイル」に価値を置いているからだろう。完成された制度をトップダウンで一気に与えるのではなく、参加する団体と生徒がともに試行錯誤しながら、制度を磨き上げていく。この漸進的なアプローチ自体が、自己決定権(Autonomy)を尊重するガバナンスのひとつの表現である。
興味深いのは、環境が変われば、そこに現れる「自分」もまた変わるという点だ。学校の教室という従来の規律空間では大人しく目立たなかった生徒が、地域のコベカツという異なる文脈の中では、思いがけないリーダーシップを発揮することがある。スポーツの場で仲間を励ます姿、文化活動の場で丁寧に後輩へ手ほどきをする姿……そうした一面は、学校という単一の評価軸だけでは決して見えてこない。人は、単一の組織のルールだけで測り切れる存在ではない。複数の「場」を持つことは、複数の「自分」を持つことでもある。
網の中の個性、服の中の私
もちろんカブトムシは誰かに着せられた制服を纏ってはいない。しかし、彼ら昆虫とて規律そのものから自由なわけでもないだろう。彼らは森という広大な生態系の中で、天敵や気候、食性といった自然の摂理と向き合いながら、自ら生息域を選び取り、そこに自分なりの「規律」を宿して生きているように見える。
神戸の放課後もまた、同じ構図をたどろうとしている。与えられた部活動という一律の制服を脱ぎ、コベカツの多様な選択肢の中から、生徒自身が合う「服」を選び、袖を通す時間へ。それは規律をなくすことではない。規律の置き所を、学校という単一の主体から、生徒一人ひとりの自己決定へと静かに移す試みなのだ。
むろん地域移行には、指導者の質の確保、費用負担の公平性、送迎など保護者の負担増、地域による活動団体の偏在といった、丁寧に検証すべき課題も残る。制度は動き出した瞬間に完成するわけではなく、実証事業の過程で幾度も手直しが必要になるはずだ。しかし、その制度設計が目指す方向性――与えられた枠組みに従わせるのではなく、主体的な選択を可能にする「場」を用意すること――には、企業や組織のあらゆるガバナンスに通じる示唆がある。
制度やガバナンスの究極の役割は、個人を一律に拘束することではなく、各人が自ら選び取った規律のもとで力を発揮できる構造を整えることにある。個人が自ら選び取ったルールの中でこそ、その人らしさは伸びやかに花開く。森の中で、それぞれの昆虫が自分の姿で生きているように。夕暮れの網戸越しに遠く煌めいて消える花火の一閃のように、その輝きは声高に誇示せず、それぞれの持ち場でひそやかに灯るもので構わない。
そして我々もまた、鏡の前で今日どの服に袖を通すか、放課後にどの場所で誰と過ごすか、自ら選び取ることができる存在でありたい。
