あなたの会社の「グループガバナンス」はミックスジュースか、フルーツポンチか、あるいはゼリーか?【遠藤元一弁護士の「ガバナンス&ロー」#38】

一見すると合理的な「ミックスジュース型」

ミックスジュースか、フルーツポンチか。

貴社のグループガバナンスをこの2つのデザート器のどちらに喩えるべきか。こんな突拍子もない質問を受け、即応できる経営者はそう多くないだろう。そこで経営者に代わり、問いの真意を推し量った多くの担当・管掌取締役はこう回答するだろう。

「わが社はグループを横断した統一規程と厳格な決裁権限のもと、完璧なブレンドを達成している」

つまり、ミックスジュースなのだと。

確かに、この「ミックスジュース型ガバナンス」には一見、強い合理性がありそうだ。

本社が強力なミキサーを回し、子会社や各部門の凹凸を削ぎ落とせば、均一でなめらかな「組織」が出来上がる。ローカルリスクは標準化され、KPI(重要業績評価指標)は統一され、J-SOX(内部統制報告制度)報告書は整然と揃う。均質化は、逸脱リスクを最小化する最も効率的な手段に見える。

しかし、この均一な味の中に、腐敗の兆候を孕んだ果実が一粒混じっていたとして、その異常を本社は検知できるだろうか。ミキサーの刃は、不祥事の芽だけでなく、それを察知するための「非定型リスクの兆候」までも粉砕する。ドロドロに溶け合った組織では、一部門の異常は瞬時に全体へ拡散・希釈され、平準化された数値の陰に隠れて不可視化される。経営陣が味覚として違和を覚えたときには、ジュースはすでに致命的な毒物へと変わっている。

統合という名のミキサー:本社主導ガバナンスが隠蔽するもの

「全体最適」「一元管理」――経営効率化の大義名分のもとに進められるこれらの言葉が、現場の情報を本社の理解可能な形式へと強制的に転換する過程で生じる情報の圧縮、さらには劣化であることに気がついているだろうか

本社が統一ルール、画一的な報告書式、本社基準のリーガル・チェックリストを子会社や事業部門に適用するとき、現場では、本社が想定すらしていなかった「翻訳作業」が静かに始まる。現場は、自らの状況を本社の管理部門が容易に理解し、安心しやすい「形式上は適合しているように見える表現」へと置き換え始めるのだ。

この翻訳の運動の中で、最初に失われるのは何か。契約条件に潜む微細な不自然さ、長年の取引関係に沈殿した不透明な摩擦、現場社員が直感的に抱く「何かがおかしい」という言語化できないが、確かに感じる違和感。こうした「非定型リスクの兆候」は、本社の定型フォーマットに収まらないがゆえに、報告経路を通過する過程でノイズとして除去されていく。

これこそが、組織をミキサーによって「ジュースへと加工する」プロセスの正体である。生々しい情報や現場の温度感は削ぎ落とされ、経営会議の机上には、口当たりが均質化された一杯の「報告書」だけが届く。経営陣はそれを飲み干し「コンプライアンスは徹底されている」と認識するが、実際にはリスクが可視性を失い、検証不能な状態へと追いやられているだけに過ぎない。

会社法362条4項6号は、取締役会に対し、内部統制システムの構築を義務づける。経済産業省の「グループ・ガバナンス・システムに関する実務指針」(2019年)も、子会社を含むグループ全体の実効的な内部統制を求めている。法が要請する本質は、組織の末端から中枢へ至る「適切な情報の流通」である。

しかし、現代の多くの企業が莫大なコストを投じて構築しているのは、情報を正確に上層へ届ける仕組みではない。むしろ、上層部にとって不都合な情報を排除し、「整形済みの情報」だけを通過させる装置になってはいないか。ここに、実務が陥りがちな制度設計上の盲点と法が本来求める理念との深い乖離が横たわる。

コンプライアンス体制の整備とは、組織の異音を消し去ることではない。異音を拾うことである。規程とマニュアルで現場を縛り上げ、一見静粛な組織を作り上げたとき、経営者は最も危険な“盲目”を手に入れている。

医学部収賄事件が示す「フルーツポンチ型」の死角:個性の暴走

ミックスジュースとは対照的に、フルーツポンチの本質は「可視性」にある。イチゴはイチゴの、キウイはキウイの形を保ち、それぞれが独立した個体として器の中に存在する。だからこそ、どの果実が傷み、どこから変色が始まっているかを、外から明確に識別できる。

ガバナンスにおける「個性の保全」とは、多様性の礼賛でも、現場への権限委譲という美学の話でもない。それは、組織の異常を早期に発見するための「構造的前提」なのである。個性をあえて残すからこそ、統制が可能になる。この逆説を理解せずして、真のグループガバナンスは機能しない。

しかし、だからといって、「フルーツポンチ型ガバナンス」のほうが正解であるかというと、必ずしもそうではないから難しい。ミックスジュース型の統合が情報の隠蔽を招く一方で、統制なき個性の放置は、組織を内側から崩壊させる。

この「個性の暴走」を鮮明に示したのが、「鉄門」で有名な大学医学部の有力講座をめぐる某一般社団法人からの収賄事件である。これを「倫理観の欠如した特定の医学者が起こした単発の不祥事」と片づけるのは容易い。しかし、ガバナンスの観点から深層を読み解くと、現代の企業組織にも通底する、統制の死角が浮かび上がる。

核心は、次の3点に集約される。

①専門性の非可視化

医学的判断や研究の正当性といった高度専門領域について、その内容を実質的に検証し得る者が組織内に存在しなかった。専門性がブラックボックス化し、外部からの視線が遮断された結果、その領域は不可侵の「聖域」として固定化した。

②権威への牽制機能の喪失

圧倒的な学術的権威の前に、周囲や事務方が異議を唱える組織文化が形成されていなかった。「先生の判断だから」という思考停止が、チェック機能を麻痺させた。

③透明性の欠落

某一般社団法人からの資金や便宜が「研究上必要な慣行」という独自の文脈に置き換えられ、一般的なコンプライアンス基準では可視化されない盲点が生じていた。

果実は熟しすぎると、自ら甘い汁を滲ませ、外からは変色が見えないまま内部で静かに腐敗を蓄積していく。変色や異臭、外形の崩壊として表面化する頃には、腐敗はすでに不可逆である。したがって、外形が破綻する前段階での“内部腐敗の兆候”を捉え、早期に介入することが組織を守る唯一の手段となる。

当該講座もまた、大学という巨大組織の中で完全に独立した「過熟した果実」と化していた。外側の皮は立派に見えるため、内部の腐敗は当初は誰の目にも触れず、さらに内部関係者の目に触れるようになっても、大げさに論じるべきことではないとの論理で誰もが問題視せず、外部に流出した時点で世間一般の常識と甚だしい乖離していたため、組織のブランドを致命的に毀損するスキャンダルへと一気に発展していった。

ここで考えるべきは、この熟成から腐敗への不可避的な転化が医療界や学術界という特殊領域だけの問題なのか、という点である。

貴社の「高度専門部門」――法務、財務、技術開発、巨額の資金を扱うM&A担当、海外子会社……。これらに、同じ構造が潜んでいないと言い切れるだろうか。専門性が高いほど、稼ぎ頭であるほど、外部からの実質的な牽制は働きにくくなる。取締役会も監査役も、本社の管理部門でさえ、「専門領域だから」「彼らのほうが詳しいから」という理由で、実質的な検証なしに承認を繰り返す。

その瞬間、フルーツポンチの果実は、健全な個別性を保つのではなく、周囲から隔絶された 「孤島」となり、腐敗へのカウントダウンを始める。

利益相反管理、情報遮断(チャイニーズウォール)、専門職の独立性確保。これら一見すると組織効率を阻害するように思える法的概念や社内手続は、なぜ敢えて設計されているのか。それらは単なる道徳的要請ではない。組織が専門性の名のもとに内側から腐って崩壊するのを防ぐための、冷徹なまでの「構造的設計論理」なのである。

「透明なゼリー型」という第3の選択肢:法務機能を再定義する

ミックスジュースは個を溶かし、フルーツポンチは個を放置する。一方はリスクを希釈して見えなくし、他方はリスクを隔離して見えなくする。ベクトルは正反対でありながら、両者が行き着く先は同じ「不可視化」である。それでは、目指すべきデザートとは何か。ここで“第3のデザート”を提示したい。透明なゼリーである。

フルーツゼリーを思い浮かべてほしい。そこでは果実は溶けない。ひとつひとつが固有の形と色、輪郭を保ったまま、透明なゼリー(媒質)の中にとどまっている。本社という媒質の役割は、現場の個性をすり潰して均一化することではない。個々の果実をあるべき位置に保持し、かつ外部からその一粒一粒を見通せる状態に置くことにある。果実が健全か、それとも変色を兆しているか――ゼリーが透明であるかぎり、その差異は希釈されることも、皮の内側に隠されることもなく、ありのまま観察できる形で残る。

会社法施行規則100条1項5号は、内部統制システムの構築にあたり、当該会社およびその子会社から成る企業集団の業務の適正を確保する体制を求めている。法が要請しているのは、子会社を本社色に塗り潰すことではなく、グループの隅々までを見通せる透明性の確保である。「ゼリー型ガバナンス」とは、この法の理念をデザートの比喩へと翻訳したものそのものである。

ゼリーを通して「見える」ことと「見られる」こととの距離

ここでも重要な問題が立ちふさがる。透明なゼリーは本当に腐っていないのか。

透明性は、それ自体では何も保証しない。どれほど澄んだゼリーであっても、誰一人としてその中を覗き込まなければ、果実の腐敗は静かに進行する。「見える」ことと「見られている」ことのあいだには、深い距離が横たわっている。

多くの企業が最後に陥る落とし穴は、「わが社は透明性を確保した」という認識そのものにある。立派な内部通報制度、整備された監査体制、形式の整った開示資料――これらが揃った瞬間に、経営陣は「見る」という能動的な営みを制度に外注し、自らの視線を引揚げてしまう。

さらに厄介なことに、ゼリーという媒質そのものが白濁することがある。透明性を担うはずの側――法務、監査役、内部統制部門、社外役員――が、形式的な承認の反復に埋没し、あるいは事業部門との馴れ合いに取り込まれたとき、媒質は静かに濁りはじめる。公益通報者保護法が一定規模以上の企業に内部通報体制の整備を義務づけたのは、通報の「箱」を置かせるためではない。箱の中の声に、誰かが現実に耳を傾けることを担保するためである。

腐敗は、見えない場所で進むものではなく、「見えているのに、誰も見ていない場所」でこそ進行する。

覗き込む者自身を問え

ミックスジュースか、フルーツポンチか。その問いに対して今や明快に答えられる。そのどちらでもない、と。

経営とは、「個性」という名の劇薬を扱いながら、同時にそれをコントロールするプロセスである。強い個体、尖った才能、独立独歩の子会社は、企業に莫大な富をもたらす原動力となる。だが同時に、それらは常に内側から腐敗していくリスクを孕んだ果実でもある。

それを恐れてミキサーを回せば、果実はすべて見分けのつかない一杯の「ミックスジュース」へと溶け合う。リスクは消えたように見えて。その実、腐り始めた一片も全体に紛れ込み、どこで腐敗が進んでいるのかを誰も見通せなくなる。リスクは消えたのではない。見えなくなっただけだ。

では、形を残してデザートの器に放てばよいのか。否。それはただの「フルーツポンチ」だ。果実は液中を漂流し、互いにぶつかり、どこに流れつくのかを本社は御しきれない。

そこで本社が担うのが「ゼリー」の役割である。果実を正位置にとどめ、輪郭を保たたせたまま、全体を1つの構造として支える。だが、ゼリーにも固有の危うさがある。設計を誤れば、透明だったはずのゼリーは濁り、せっかく捉えた果実の姿さえ外から見通せなくなるからだ。

最後に、貴社の中枢を預かる経営者、そして法務責任者であるあなたに、もう一度問いかけたい。あなたの組織のゼリーは、今、透明か。それとも、すでに濁り始めているか。

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